日本を発つ前、「初めての海外で、英語がしゃべれずにインドに行くのはハードルが高すぎる」と、周囲から心配された。しかし、その心配が現実のものとなってしまった。
「親には半年インドに行ってくる、と言って旅立ったんですけれど、最初の1週間でもう帰りたくて仕方がなかった」
「電波少年」と「風の谷のナウシカ」
しかし、なぜ山田さんは周囲の忠告を振り切ってまでインドにこだわったのか?
「藤原新也の写真集『全東洋街道』(集英社)がすごく印象に残ったんですよ。あと、テレビの影響もあると思う。(お笑いコンビ)『猿岩石』の『電波少年』とかが、ちょうどやっていたときやった」
インドに着いてから1週間後、山田さんはニューデリーから逃げ出すようにインド北部の山岳地域ラダックへ向かった。
「最初はバラナシとかに行こうかなと、漠然と思っていたんです。でも、もう人のいっぱいおるところは嫌やった。ラダックを選んだのは宮崎駿監督の映画『風の谷のナウシカ』のものすごく強烈な印象があったから。同じような風景があるところはどこやろ、って、インドに行く前に探したんです」
山田さんはラダックのゲストハウスに腰を落ち着けると、ようやく撮影に没頭した。
「すごく運がよかったんですけれど、ゲストハウスのおばちゃんが『今日はこっちに行くわよ』という感じで、いろいろなところに連れていってくれた」
季節は冬になろうとしていた。標高約3500メートルのラダックは寒さが厳しく、観光客はほとんどいなかった。
「そこに1人でずっとおるやつは珍しかったからやと思うんですけど、撮影を断られた記憶はほとんどない。家の中を撮らせてくれって頼むと、簡単に入れてくれた」
山田さんはラダックに2カ月半ほど滞在したのちに帰国。さらに99年にも同地を訪れた。
撮影はノラリクラリと
2度目のラダック訪問から1年後、山田さんは大阪芸大・阿部淳ゼミの卒業生らの集まりに参加した。
「自信満々でインドの写真を見せたんですけれど、結局、ぼくのは旅して撮れたっていうだけの写真だった。他の卒業生は普段、行ける場所で撮って、それを作品にしていた。けれど、ぼくにはそういう思考がまったくなかった」
特に印象深かったのは、阿部先生の作品だった。
「こんなことをしていいんか、と思った。言うたら、それは個人的なドキュメンタリー写真だったんですよ。社会的なメッセージが明確になくてもいい。自分の普段の経験を写真にすればいい。そんな先生の話を聞きながら、ああ、こんな自由なことができるんか、と思った。それからは、今いる場所で撮っていこう、という感じになりました」