貸した写真が1位に
69年、バルセロナ大学に入学。スペイン美術史を学ぶ一方、休みになると旅をした。その一つがスペイン最南端、ジブラルタル海峡だった。
「海峡を挟んでアフリカ大陸の山々が見えた。日本では海の向こうに他国を見るということはほとんどありませんから、緊張感がある風景だな、と思いながらシャッターを切った。懐かしい思い出です」
まったくの偶然だが、この写真がのちに高橋さんを写真の道へ引き込んでいく。
スペインにきてから約半年後、高橋さんは地中海に面したバルセロナから250キロほど内陸のサラゴサへ引っ越した。
「まだ日本人が少ない時代でしたが、バルセロナ大学には日本人学生が10人くらいいた。もっと日本人がいないところへ行こうと思って、サラゴサ大学への編入を決めた。サラゴサは砂漠のような荒れ地にある人口50万人ほどの静かな街です」
そこで高橋さんは写真学校に通っていた学生、ハビエルと出会う。彼は高橋さんが住んでいた下宿のオーナーの友人だった。
「ハビエルが『写真をやるんだったら、ついてこい』って、写真学校に連れて行ってくれたんです。それから彼と暗室に入り浸りになった。しばらくすると、ハビエルから夏休みの課題として『お前の写真を貸してくれ』って言われた。それで、ジブラルタル海峡の写真を渡したら、全校で1位になった。生まれて初めてぼくの写真が評価された瞬間でした。2人で万歳、万歳と言ってワインを飲みました」
人々の暗い影
高橋さんはハビエルから暗室技術を学ぶとともに、親に頼んで写真雑誌を日本から送ってもらった。
「それがぼくの写真の先生でした。例えば、『カメラ毎日』の編集者・山岸章二さんがセレクトした写真を見て、コメントを読んだ。どんな志で撮影した写真なのか、学びました」
70年夏、高橋さんは北欧ストックホルムを訪れた。
「夏休み中、ターゲンス・ニーヘーテルというスウェーデンの大新聞社の食堂で皿洗いのアルバイトをしたんです。当時、世界最高のバイト料をもらえるというので学生たちの注目の的でした。モスクワ大学とか、さまざまな大学から学生がきていた。3カ月後にはハッセルブラッドを買って、スペインに戻りました」
それまで使っていたミノルタの一眼レフから中判のハッセルブラッドにカメラを切り替えると、「写真家を目指そうという、プロ意識が湧いてきた」。