ステージで当時の思い出を語る村上さん(中央、TOKYO FM提供)
ステージで当時の思い出を語る村上さん(中央、TOKYO FM提供)

――1968年に神戸から早稲田大学に入学され、上京後、真っ先に新宿ピットインに行ったとお話されていました。当時、どんな生活を送っていらっしゃいましたか。

 1968年から70年くらいにかけての東京は本当に見事に混乱した都市で、すべてが刺激に満ちていました。なんでもありというか、おもちゃ箱をひっくり返したようなスリルに満ちていた。古い価値観が力を失って、自由に呼吸ができるようになったみたいな・・・。そういうのはもちろん一種の錯覚だったし、長くは続かなかったんだけど、そんな錯覚、というか幻想が確かなリアリティーを持てる時代でした。

 当時のピットインは新宿の紀伊國屋書店の裏にあって、エネルギーに満ちた場所でした。そこに行けば何かが起こる・・・みたいな期待に満ちていた。ジャズもロックもどんどん目まぐるしく変化していて、そんな世の中の流れについていくだけで忙しくて、あっという間に時間が経ってしまったような気がします。でも楽しかったな。みんな髪を長くして、髭を伸ばしていて。その頃みんなが集まる場所は新宿だったですね。僕も新宿の街でいろんなアルバイトをして、歌舞伎町東映でほとんど毎週ヤクザ映画を観ていました。

――伝説のライブの再演が決まった2022年はパンデミックやウクライナ軍事侵攻など、世界が揺れた1年でもありました。プロデューサーとしてイベントにどんなメッセージを込めたのでしょうか。

 コロナ禍の最中に行われたコンサートだったんですが、ちょうどコロナが一時的に、台風の目みたいにすっと収まった時期にあたっていたので、なんとか無事に決行することができました。考えてみれば幸運だったですね。そういう久しぶりの心の解放感も、コンサートの成功に結びついていたのではないかと思います。コロナの蔓延といい、ウクライナの戦争といい、気持ちの晴れない日々が続いていたわけですが、善き音楽の力というか、そういう心の昂(たかぶ)りは、そんな困難な時期にこそ必要なんだと痛感しました。

――2018年に第1弾が放送された「村上RADIO」は5月で放送50回を迎えました。今後はどんなことをしていきたいですか。

 全部成り行きだからね、方針も何もない(笑)。思いつきでやっています。特に回数を数えてもしょうがないというか、ただやりたいことをやっているだけ。これからも気の向くままじゃないかなと思うけど、やりたい、かけたい音楽もいっぱいあるし、こういう企画をやりたいなっていうものはいっぱいあるからまだまだできる。でも、あの曲をかけたいと思っても探してくるのが結構しんどいですね。僕はジャズに関しては全部きちっと整理しているか、何がどこにあるか頭に入ってるんだけど、CDに関しては整理してないんだよね。

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普通だったら聴けない音楽を若い人に