作家の村上春樹さんが「週刊朝日」の休刊にあたり特別インタビューに応じた。自身がDJをつとめるTOKYO FM「村上RADIO」のゼネラルプロデューサー・延江浩さんを相手に、昨年自らがプロデュースした「再乱入ライブ」や今夏発売のレコード、さらに放送50回を迎えた「村上RADIO」への思いを語った。
世界中で若者たちの反乱が起こったのは1960年代後半。ベトナム戦争の泥沼化に伴う反戦運動など、世界全体で同時多発的に起きた体制改革を求めるうねりの主役といえば、アメリカならベビーブーマーたちで、日本では団塊の世代だった。僕にとって10歳ほど年上の兄貴・姉貴たち、つまり村上春樹さん世代の反乱ということになる。
変革のエネルギーに満ち溢れた彼らの青春は読み物や映画でたどることができるが、音楽こそ最も大切なアイテムだ。
若者たちの闘争の季節の真っただ中、69年7月、早稲田大学の教室で行われた山下洋輔トリオ(ピアノ山下洋輔、サックス中村誠一、ドラム森山威男)のフリージャズライブはその象徴として今も語り継がれている。
仕掛け人は当時東京12チャンネル(現テレビ東京)のディレクターだった田原総一朗さん。革マル派が支配していた大隈講堂から黒ヘルのノンセクトラジカルがピアノを勝手に運び出し(その中に作家の中上健次もいたという)、4号館でゲリラライブを敢行するという企画だった。
田原さんを訪ねると、「こんな危険なことはなかったよ。だってそこには民青(共産党系の日本民主青年同盟)が立てこもっていたんだから」と言う。「いやね、山下洋輔さんが、『どうせならピアノを弾きながら死にたい』っていうから、よし、だったら死に場所を探してやるって」
田原さんは温和な表情でどこか面白そうに乱暴なことを口にする。
死に場所を提示された一方の山下さんは、「当時は特別な状況でね。火炎瓶が飛び交ったらどうやって逃げようか。ピアノは早稲田のものだから置いて逃げちゃえばいい。中村もサックスを抱えて逃げますなんて言ってね。森山はドラムに火をつけられたらどうしようもない。だけど、その日、対立するセクトの学生たちが僕たちのフリージャズに聴き入ってしまった。音楽が勝ったんです」