中将:厳しい人だったとは聞きますが、沢田さんを悪く言う人はあまりいません。

森本:プロデューサーの加瀬邦彦さん、バンマスの井上堯之さん、作家さんたちもみんなジュリーのことが大好きでした。表現者としての欲求もあっただろうけど、損得を超えた不思議な魅力があるんですね。人柄の良さでしょうか。安井かずみさんの「危険なふたり」(1973年)なんて個人的な願望が含まれてたかもしれません(笑)。

中将:森本さんがマネジメントを担当したのは82年のシングル「麗人」のころまで。約10年間を振り返って印象的だったことは。

森本:いくつもありますが、「危険なふたり」のころ、加瀬さんが早川タケジさんを連れてきてからの変化はすごかったですね。スタイリストの範疇(はんちゅう)を超えて、アートディレクターとしてジュリーのビジュアル観を提案してくれました。それを受けて、それまでメイクが好きじゃなかったジュリーも美の表現者として目覚めたんですね。

「勝手にしやがれ」(77年)でレコード大賞を獲ったのもすごくいい思い出です。そしてその後、「もう一度ジュリーにレコ大を」とみんなで奮闘したのが「TOKIO」(80年)。年が明けてすぐ生放送で披露して元旦にリリースするというプロモーションも素晴らしいし、衣装や楽曲もいい具合に時代の先を行ってたんじゃないでしょうか。あんな大掛かりなセットでテレビ局は大変だっただろうけど、現場のスタッフたちはみんな面白がってくれました。

 当時はテレビが面白いことを追求していた熱い時代。演出ひとつにしてもいろんなキャッチボールがあって、たとえば「サムライ」(78年)の時にスタジオで50枚の畳を敷いた上で歌う有名なシーンは「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)でディレクター、プロデューサーだった疋田拓さんのアイデアでした。実はジュリーは初め「西洋的な『サムライ』の歌なのになんで畳なんか……」と嫌がってたんですが、「嫌だったら外すからとにかく一度見てくれ」と。演出の方たちがジュリーと勝負してくれたいい時期でした。誰もやったことがない表現をみんなで実現していったあの快感は忘れられませんね。

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