■「広告の時代」のCMクイーン
広告の時代がやって来た――バブル経済前夜からその絶頂期にかけて、さかんにそんなことが言われました。
その頃までに、家電や自家用車といった「生活に必要なもの」は、日本中に行きわたっていました。実用という観点からいえば、もはや庶民に買うべきものはありません。そうした状況で需要があるのは、「それを持っているとカッコいいというイメージがあるもの」です。このため広告という「商品のイメージづくりを担うジャンル」に関心が集まりました。糸井重里や川崎徹などの花形コピーライターは大芸術家のように扱われ、映画や音楽より真剣にCMが語られました。
そんな風に広告が「時代の花形」だった頃、CM女王と呼ばれたのが小泉今日子です。「彼女を起用すると売り上げ2割アップ」と謳われ、化粧品、食品、家電、さまざまなCMの中で躍動していました。時流の先端で、小泉今日子は輝いていたのです。
バブル期には、景気の良さに人心が浮かれていたためか、悪ノリ気味の企画が流行りました。小泉今日子は、その種のプロジェクトにも駆り出されています。雑誌「活人」の創刊号(1985年12月)では、全身黒塗りのビキニ姿で表紙に登場。巻頭グラビアでは、その黒塗りルックのまま火を吹いています。写真集『小泉記念艦』(86年)には、全身のレントゲン写真や「人拓」が掲載され話題を呼びました。
世間がバブルに酔いしれる中、小泉今日子は、そうした空気に強く同調しているタレントに見えました。けれども、何かに共鳴しすぎた人物は、その何かが去った後、過去の存在になることは免れません。小泉今日子は、バブルが崩壊してから20年あまり立った今も、置き去りにされることなく生きのびています。
バブルの渦中にいるかに見えた小泉今日子は、どうしてその後の時代にも対応できたのでしょうか。
■kyon2をつくった男たち
バブル時代の小泉今日子には、何人かのブレーンがいました。
断髪して独自路線を打ち出した頃、プロモーションの戦略を考えていたのは秋山道男です。秋山は、無印良品のプロデュースやチェッカーズの売り出しで成功し、1980年代には「時の人」でした。小泉今日子が黒塗りビキニ姿になった「活人」も、彼女の「人拓」が載せられた「小泉記念艦」も、秋山が編集をしています。
秋山道男の提案で小泉今日子が行ったことには、現在の目から見ると疑問を感じる部分もあります。とはいえ、前例のないアイドル像を小泉今日子が確立することに、彼が貢献したことは間違いありません。
『もしも「なんてったってアイドル」を松田聖子が歌っていたら(中)』(dot<ドット> 朝日新聞出版)で、私は「KOIZUMI IN THE HOUSE」というアルバムに触れました。ハウス音楽をメジャーにするうえで、大きな役割を演じたディスクです。89年発売のこの作品の、実質的なプロデューサーは近田春夫でした。
近田春夫は、ジャンルを越えた幅広い音楽活動と、Jポップの深読み批評で知られる人物です。「KOIZUMI IN THE HOUSE」をリリースした頃の小泉今日子は、ハウス音楽にそれほど詳しくありませんでした(小泉当人がインタビューで告白しています)(注1)。近田春夫が身近にいたおかげで、小泉今日子はこのアルバムを生みだせたといえます。
90年代前半には、川勝正幸が小泉今日子の同伴者でした。その頃川勝が手がけていた仕事は、セルジュ・ゲンズブール一家の映画や音楽の紹介です。当時、映画マニアのあいだで世界的にブームになっていた、ジョン・カサヴェテス監督作品の伝道にも積極的でした。おしゃれなマイナーカルチャーとしての「サブカル」――川勝正幸は、その「最強の目利き」のひとりでした。
小泉今日子はそんな川勝正幸から、おびただしい養分を得ています。彼女の自伝『パンダのanan』(マガジンハウス 97年)には、「好きな映画監督はジョン・カサヴェテス」という文言が見えます。おそらくこれは、川勝の影響の表れです。
川勝正幸との交流がなければ、小泉今日子が現在のように「文科系活動」を展開できたかどうかは疑問です。「川勝さんがいてくれたおかげで、私はいろんな人に出会うことができたし、それまで点と点でしかなかったものが太い線としてつながることもできた」と、小泉今日子当人も書いています(注2)。