
「卑弥呼の墓か?」と古代史ファンが沸いた吉野ケ里遺跡で見つかった石棺墓。副葬品は出土しなかったが、邪馬台国につながらなくても「大きな一歩」との評価だ。AERA 2023年7月3日号の記事を紹介する。
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国指定特別史跡・吉野ケ里遺跡(佐賀県)で行われていた発掘調査で見つかった2世紀後半~3世紀半ばの石棺墓の内部の発掘調査が6月14日に終わり、副葬品などは出土しなかったと佐賀県が発表した。
この発掘調査は遺跡内に神社があったため調査ができなかった「謎のエリア」で行われていたもので、今年5月からの南側の調査では盗掘にあっていない石棺墓が出土し、古代史の謎を解き明かす副葬品が出土するかと期待が持たれていた。というのも、昨年5月から開始されていた北側の調査では弥生時代の甕棺(かめかん)墓の列などが出土したからである。
■邪馬台国と同時代
今回見つかった石棺墓の石蓋には埋葬者の魂を封じ込める意味とも言われる「×」印の線刻があり、また石棺墓内部からは赤色顔料も確認され、石蓋が閉じたままだったこともあり、副葬品などの出土があれば、古代史に新たなページが刻まれるとも思われた。
この石棺墓の出土がこれほどまでに注目されるのは、邪馬台国があったとされる弥生時代後期の墓とされ、吉野ケ里遺跡と邪馬台国との関連についての手がかりが見つかるかもしれないと期待されたからだ。
邪馬台国の所在地をめぐる論争には長い歴史があるが、なかでも「畿内説」と「九州説」が有力だ。
神功皇后を卑弥呼とみなした『日本書紀』の記述を継承した新井白石・伴信友の「畿内大和説」と、九州の熊襲勢力が私的に通交したとする本居宣長の「九州説」。ここから邪馬台国論争は本格的に始まり、1989年、吉野ケ里遺跡で弥生時代の大規模な環濠集落が見つかった際は、この周辺に邪馬台国が存在したのではと九州説が盛り上がった。一方、2009年に奈良県桜井市の纒向遺跡で大きな建物跡が見つかった際は卑弥呼の祭祀場ではないかと話題になり、畿内大和説が盛り上がった。
これほど説が分かれるのは『魏志倭人伝』に記された「不弥国」から先の邪馬台国へのルートの解釈の違いだ。ただ考古学者は『魏志倭人伝』はあくまで文献の記録とする意見もある。
結局『魏志倭人伝』に「乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う」と記された卑弥呼が倭王として治めた邪馬台国はどこにあったのか──結論は出ていない。
■吉野ケ里遺跡は偉大
この石棺墓の発掘について、東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんはこう語る。
「邪馬台国と安易に結びつけるべきではありませんが、初めてこのニュースを聞いたとき、吉野ケ里遺跡には貴重な史料があり、やはりすごいなと嬉しくなりました。副葬品は出土しませんでしたが、あれだけ土が入っていたら、仮に鏡や剣があったとしても溶けてしまっていると思われます。しかし大発見であることは間違いないし、巨大なお墓を造ることができるのは、大きな勢力があったからだと裏付けることができます」
さらに本郷さんは、この地が中国の文物、文明がやってくる道筋であり、日本有数の先進地域だった可能性も高いとも話す。
「吉野ケ里遺跡がある神埼市には、中世には神埼荘という大きな荘園がありました。平清盛は神埼荘に拠点を起き、日宋貿易を行っていたのです。中国の船は有明海を通って入ってきていた。吉野ケ里遺跡は脊振山を後背地にして繁栄したとも考えられます。今回の発掘は、吉野ケ里遺跡の存在の大きさを再確認できる発見なのです」
さらに幕末には佐賀藩はアームストロング砲という当時最新鋭の大砲を保有しており、古代から近代まで、ここは最先端の地だったのだという。
「今回見つかった石棺墓は邪馬台国、卑弥呼などへの手がかりに関しては小さな一歩だったかもしれませんが、日本の歴史を俯瞰してみた際、日本の骨組みに関わる大きな一歩といえる発見なのです」(本郷さん)
「謎のエリア」の発掘調査は、まだ全体の6割程度しか行われていない。
(ライター・鮎川哲也)
※AERA 2023年7月3日号