『死の講義』橋爪 大三郎 ダイヤモンド社
『死の講義』橋爪 大三郎 ダイヤモンド社
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あなたは、自分が死んだあとのことを考えた経験はあるだろうか? 生き物には必ず訪れる"死"。世の中にはさまざまな死生観があり、人びとのライフスタイルや土着の文化などによって、支持される意見も異なる。今回紹介する『死の講義――死んだらどうなるか、自分で決めなさい』(ダイヤモンド社)を読むと、世界に広がる"死の多様性"が見えてきた。

そもそも"死"について考えることは難しい、と筆者の橋爪大三郎氏は語る。なぜなら「自分が死ぬ」というのは、「思考する自分自身が存在しなくなる」ことを表すからだ。

「ものを考えたり感じたりしているのは、『このわたし』だ。その『このわたし』が存在しなくなる。これは大事件だ。このことをどう考えたらいいのか、わからない。だから、死ぬということを考えるのは、むずかしいのだ」(同書より)

一方で人びとは古くから哲学や宗教など、さまざまな分野で"死"について考え続けてきた。橋爪氏いわく、「自分が死んだ」という事実も「死んだあとにどうなった」かも確認する術がないからこそ、"死"を考えることに意味があるのだという。

「死についてはいくら考えても、わかり切らないという感覚が残る。死についていくら考えてみても、それは生きている人間のやること。死んでもいないのに、なにがわかるだろうか。そういう、埋まり切らない余白の感覚が残るのだ。

この余白の感覚を埋めようと、人びとは死について、さらに考えていくことになる」(同書より)

例えば長きに渡り人間の死生観に影響を与えているものとして、一神教の考え方が挙げられる。一神教とは「世界のすべてを創造した」として、唯一無二の存在である神を信仰する宗教のこと。具体的にはキリスト教やイスラム教、ユダヤ教などがあり、地球上にいる人類の半分以上が一神教の死生観を受け入れている。

一神教における神は"全知全能"なので、何かが生み出されるのも壊されるのもすべて神によるものだ。これは人間も例外ではない。

「人間なら誰もが考える、『わたしはなぜここに存在するのか、問題』。

一神教なら、答えは簡単だ。それは、『神がわたしを、このように造ったから』だ」(同書より)

そして一神教の考え方によると、神は死者をも復活させられるという。なかでもキリスト教とイスラム教では、「人間は皆、例外なく復活する」と考えられているのが特徴だ。

「人間は、ひとり残らず復活する。復活は、死んだあと、『もう一回だけ』『自分に』生まれることである。復活したら、自分が復活した、と自覚できる。意識が持続する。人格が持続する。責任が持続する」(同書より)

一神教には世界の終わりを表す"終末"という概念があり、終末を迎えると人間は"最後の審判"と呼ばれる裁判で神による裁きを受ける。最後の審判では神に背いた行為が罪として追求され、無罪になった人は神のもとで永遠に生きるとされているのだ。

「一神教では、生命は、神が人間に与えたと考える。それが取り上げられて死ぬのは、神の下す罰である。

言い換えるなら、人間は本来、死なないのである。

神と人間は、もともと正しい関係だった。それが、人間の罪で、正しくなくなった。神はそれを、終末の機会に正しくする。そして人間に、永遠の命を与える」(同書より)

一神教における神の存在は永遠で、それ以外はすべて神によって簡単に壊されてしまう。だからこそ、一神教を信じる人びとにとっては神とともに生きることこそが"救い"だといえるだろう。いつ訪れるのかわからない終末に備え、日頃から神への畏れと敬意を忘れてはならないのだ。

一方で対照的な特徴を持つのが、古い時代から日本で浸透していた"イザナミ"という神の死にまつわる伝承である。イザナミは夫のイザナキとともに日本列島を生んだ神だが、とある事故で亡くなり黄泉の国へ行ってしまったという。「死んだら黄泉の国に行く」とする考え方は、古くから日本人の間で受け入れられてきた死生観だ。

一神教の神は永遠に存在し続けるが、古事記に登場するイザナミは神でありながら人間と同じように死ぬ。もともと日本の神々は山や木といった自然を表す存在で、自然が死を迎えることは決しておかしいことではない。つまり"死"もまた自然のうちであるため、同じく自然そのものである神も死に対しては無力なのだ。

「人間は、神に頼らず、自分だけの考えと力で、死に立ち向かって行かなければならない。これが、日本人の原体験だ」(同書より)

異なる文化や暮らしのもとでそれぞれ固有の価値観が育まれてきたことを示す、興味深い例だといえるだろう。

同書では他にも、世界各地に根付く宗教と死生観がわかりやすく解説されている。ぜひ手に取ってみて、死後の世界を自由に想像してみてはいかがだろうか?