このようなエピソードひとつとっても、本作において「恋」とは「顔をかえるもの」であり「身体をつくりかえるもの」であると表現される。恋は「身体」をつくりかえる。それこそが本書の描く「恋」なのだ。世間では恋とは心の結びつきだと表現されたり、あるいは精神的な流行り病だと表現されることもあるだろう。だが町屋良平は、それをあくまで「身体」が先行するものとして表現する。それはしきに限ったことではなく、本書を貫く通奏底音なのである。つまり身体が常に先にやってくる。五感が恋を語る。高校時代の恋の記憶は、常に身体感覚と隣り合わせになっていく。

 彼らは十代だった頃、彼ら自身の身体を、頭でコントロールすることができなかった。だが大人になった四人は、それぞれに頭で考え、自分を制御しようとしている。弟に子育ての母親役を押し付けられている青澄、社内で恫喝してくる上司と寝る京、預金が尽きたら死のうと思いつつ薬を飲み続けるしき、そして久しぶりにやって来た京からのメッセージに返信しない土。四人にとって、高校時代の身体の記憶は遠く、自らの感情と乖離した生活を送るのが現在の時間である。

 物語においては、高校時代の鮮烈な身体感覚と、死んだような身体を引きずり生きる現代の四人の様子が交互に語られる。その文章には、あるからくりが潜むのだが――それはぜひ本作を読んで体感してほしい。

 私たちはどんなに忘れたくないと思ったことも、忘れてしまう。身体的な感覚は、尚更だ。高校時代の鮮烈な一瞬も、どこかで消え去ってしまう。現在が死んだような時間を生きていると、過去の記憶まで、死んだようなものに変わってしまう。だがその過去を、どんな言葉で語るのか。どんな文体で語るのか。私たちはその語り方によって、記憶を変化させられることを、知っている。恋愛関係なんてその最たるものだ。現在の関係によって、その恋の記憶はどんなものにも変えられる。恋愛の幸福な身体感覚なんて、一瞬だけのものかもしれない。だがそれでも、身体同士が触れ合い、恋に発展するその一瞬を、本作は祝福しようとする。

 言葉を通して語られる本作の身体感覚は――決して美しいだけのものではない。しかしその記録が、人生を言祝ぐこともある。そのような作者の信念に基づく小説が、やっぱり美しくないわけがないのだった。

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