それならば、隣人とは、同じ街に住みながらも、異なったルーツを持ち、異なったルートをたどって、いま、ここに共にある人のことだ。食べるものも、着るものも、話す言葉もみんな違っている。けれども、違っているからこそ尊重しあえる。世界各地で移民排斥や差別をめぐる過酷な状況はいまも続いている。だからこそ、他者が生きてきた経験や歴史を尊重することが必要になる。声高にではないが『白鶴亮翅』にはそうした生き方が書かれている。
また、『白鶴亮翅』は女性たちが生きのびるための物語である。本書の題名になっている「白鶴亮翅」とは、太極拳の技のひとつ。作中では、「鶴が右の翼を斜め後ろに広げるように動かして、後ろから襲ってくる敵をはねかえす」動作として描写されている。『白鶴亮翅』では、チェン先生という小柄な女性が営んでいる太極拳学校が様々なバックグラウンドを持った人びとを結びつける大きな役割を担っている。読み進めるうちに、それぞれの人物がどのように生きてきたのかが伝わってくる。
ある出来事がきっかけで魔女扱いされるようになったお菓子屋のベッカーさん、フィリピン出身で英語に堪能なロザリンデの家のバスタブにはある秘密があり、歯科医のオリオンさんと美砂は一緒にそれに対処しようとする。さらに、「若い人に資金を提供する仕事」をしているロシア人のアリョーナの挿話にははっとした。先ほど引用した「白鶴亮翅」の動作で、アリョーナはまるで魔女の太極拳のような技をふるう。美砂は、クライストの短篇小説「ロカルノの女乞食」を翻訳している。また、『楢山節考』の映画を観る場面もある。どちらにも、厄介払いされそうになった老齢の女性たちが登場する。この社会からふるい落とされそうになった彼女たちが、それでも生きられる物語が提示され、『白鶴亮翅』の登場人物たちの生き方と重なってゆく。そうすると、女性たちを魔女化してきた社会のほうが問われているのかもしれないと私は思うようになる。あまたの困難を、「白鶴亮翅」のポーズではねかえし、元気に生きてゆく女性たちは、年齢を重ねて、その生をまっとうするだろう。そこに希望と明るさを感じた。
けれども、この小説は、物語がどれだけ危険なのかも示している。物語には虚構も入るし、語り手が門を閉ざすこともある。一歩一歩、慎重に確かめながら、歴史をたどり、いまの自分を知る。ゆっくりと進むよりほかないということをこの小説は教えてくれる。もちろん、多和田葉子の言葉への感性や遊びも健在。ベルリンの様子が伝わってくるのも多和田文学のファンにはうれしい。生き生きとした登場人物に触れてほしい一冊だ。