象が空を飛んでいるのを見たらきっと驚くだろうけれども、そもそも象は空を飛ぶものだと思っていれば驚くこともないだろう。人との距離感も同様で、自分を軽んじる恋人だと思っていれば、どんな扱いを受けたって傷つくこともない。だって、すべて思い定めた通りだから。
この小説の主人公である沙知はそのような姿勢で世界と接してきた。結婚してから8年間、毎朝、夫と前夜に見た夢について互いに話すことを取り決めにしているが、これまで一度も、ほんとうに見た夢について夫に話したことはない。いつも適当にまったく別の夢を創作して、聞かせている。愛しているかどうかを考えたことがない夫、親から距離を置こうとするひとり息子、壊れたおもちゃのように同じことを繰り返すママ友との英会話レッスン、同居する義母からの日々の小言。どれもそんなものだと思い定めてみれば思い煩うこともない。
だから、客観的にはどうであれ、「木陰で昼寝をする老犬みたいなこの場所」だと本人が考えていた平和な生活に、波紋が起きることから物語は始まる。「森」と呼んでいた家の裏の雑木林が開発されることになったという小さな事件。住民と対立する開発業者の男は沙知の中学の同級生であり、彼女は不貞を働く。さらに住民の情報を流すスパイのような真似もするが、罪悪感を持つことはない。森がどうなるかなんて彼女にはどちらでもよく、想定外の事態を早く終わらせた方が幸せになるのだと信じている。沙知は日常を愛しているように見えて、ぞんざいに扱っている。他人だけではなく、自分もどうでもいい存在なのだ。だから、「悪い恋人」にぞんざいに扱われることに飢えている。
この事件を契機に、平穏だった家族が変質していく、のではない。むしろ、それまで家族が内包していた変質が、外に放たれたといった方が正確ではないだろうか。想定外の開発や不貞などで歯車が狂ったのではなく、そもそも最初からどこか狂っていたのだ。その「気配」が主軸となって物語を牽引していく。
ある時、夫が毎朝話して聞かせる夢もまた、自分同様に実際に見たものではない創作であることに沙知は気づく。そして、それは今までずっとそうだったのかもしれないと思い至る。その場面は、「なぜかわかった」と描写されている。この理由や説明ではなく、なぜかわかる、という感覚こそ、「気配」なのだろう。作者は登場人物のあからさまな感情の説明を極力省き、事実を細密に積み上げていくことでそれをわからせる。夜の冷気が徐々に部屋を侵食していくように、ひずみの濃度が上っていき、ついには日常から溢れ出していく様を繊細に美しく描き出した。
それにしても、嘘の夢をなぜ夫婦は8年もの間、話し続けたのか。沙知はある時から、どちらから言い出したわけでもないのに夢の話をしなくなっていたことに気づく。そして再び夢を語り始めた時、ほんとうの夢の話を自然に話してしまうところに、嘘に対する作者の姿勢が現れているように感じる。正しい嘘とは何か。やさしい嘘とは何か。嘘をつくことは異常なのか。平和だと思っていた日常の異常性が明らかになっていくが、それは特別な事柄だけではなく、夫の母親や父親というだけで、血の繋がりのない老人たちと深く関わりあうことも異常なのではないか。偶然知り合った男と一緒に暮らし、子供を産み育てることだって、じゅうぶん異常ではないかと主人公は思い至る。
<でも、ひとはそれを異常だとは言いはしない。私だってそうだ。異常だとは思わないようにして生きている。ただ、異常という言葉は存在する。いったいどこから異常だということになるのだろう。正しい異常はどこからだろう>
異常や狂気はどこか別のところにあるものではなく、日常の中にこそあるという真理がこの小説の基本動力であろう。ただ、異常もそういうものと思い定めることで、それはもう一回りして、異常ではなくなり、倦むべき日常になる。だからこそ、物事をぞんざいに扱えるのだとも言える。すべてが日常に成り代わるのであれば、つまり、最後は必ず救済される存在であれば、墜ちてみることくらい別にたいしたことではなく、構わないと。主人公が不倫相手と通うラブホテルさえ、自分の家に戻ってきたみたいにほっとしていたのも、それが日常となっているからだ。
そのような自己肯定感からくる確信こそが生の原点であり、力になり得る。だからこそ、壊れていく気配を描き出しながらも、読後感はのびやかで明るい。雨請いは時間が経てば必ず成功するのと同様に、悪い恋人がいようが、森がなくなろうが、家族が体を壊そうが、日常に異常は内包されていて、その異常はいつか日常になる。生というものは出発点と終点が必ずどこかで繋がっているものなのだ。