――重めのテーマながら、二人の快活で明るいトークに救われた対談。表現者として「零落」に陥る怖さを知っているからこそ、なのかもしれない。
趣里:私は「零落」な状態、めちゃくちゃあります。ずっとその連続というか。バレエで怪我をしてしまったことなどもありますけど、気持ちの面ではそれ以前から、特に思春期はつらいことが多かった。端から見たら大したことではないかもしれないけれど自分は苦しくてしょうがない、という時期があって。
斎藤:うんうん。
趣里:そういうときに割と我慢して自分の中だけで解決しようと思っちゃうタイプなんです。人に迷惑をかけたくない、と。思春期のときも、バレエをやめざるを得ないときも、お芝居をしてからも、そういうポイントごとに一筋の光のようなものを必死に探しながら、ちょっとずつ這い上がっている感じです。
■「上ると、下るんだ」
斎藤:人間は上がることと下がることを繰り返す生き物なんだと思うんです。僕がそれに気づいたのは小学校低学年のとき。電車通学をしていたのですが、下校時に漏らしちゃったんです。駅のトイレでパンツを洗って、家まで帰る間がまさに「零落」を感じた瞬間だった。行きは「雨で傘をさせてうれしい!」ってウキウキしていたのにこの落差。子ども心に「上ると、下るんだ」とはっきりわかった。
趣里:わかる気がします。子どものときって、すりむいたのに、また忘れてはしゃいで、すりむいて、の繰り返し。
斎藤:そう。そういうことが「零落」の予行練習だったのかなと思うんです。人間はそれで自然なんだ、と。映像制作の現場でも撮影が長くなるとクリエーティブに向かう光が多少なりとも摩耗して、零落していくことがある。自分が監督をする現場でもそういうことがあります。でもやっぱりその中ですくい上げてくれるのは「人」なんですよね。特に趣里さんのような俳優の存在が大きいんです。
趣里:私も最近、もう少し、人に助けを求めてもいいのかな、と思えるようになりました。結局振り返ってみれば周りに助けられているし、人が作り出したもの──映画や舞台などのエンターテインメントに助けられたこともたくさんある。この作品もそんなひとつになることができればと思っています。
(構成/フリーランス記者・中村千晶)
※AERA 2023年3月20日号