人として暮らしていれば、たとえ王様だってままならぬことはあり、そんな時に知性があれば正しく生きることができるだろう。知性は良心と密接に関係している。良心とは結局のところ「他人の権利を尊重する」ことに尽きる。で、この良心をちゃんと意識する知的職業=学者が最近少ないんじゃないのか、と思うことが多くなってきた今日この頃、この本で京都の特異性というか優位性みたいなものを感じた。
 桑原武夫をリーダーとして今西錦司、貝塚茂樹、上山春平、梅棹忠夫、梅原猛、鶴見俊輔などが集まった「新京都学派」と呼ばれるグループがあった。戦前に「京都学派」があり、これは西田幾多郎、田辺元、和辻哲郎ら「哲学者の学風」をもったグループだった。戦後にスタートした「新京都学派」は「京大人文科学研究所の学際的な学問スタイル」をもっていて、彼らが学者としてどのように日本の知の一端を担ったのかが書いてある。なにしろ「横文字を縦に直すことを学問と錯覚している学者」はおらず、なおかつ、そこに記されるエピソードがいちいち品が良くてかつ知的。大教授が物静かで、なおかつ気さくで、さらにきちんとしている、などというのを読んでいると、ああ選ばれた人による選ばれた世界というのがあるのだなと感じ入る。
 で、いちばんひっかかるのもそこだ。京都に住んでいた時、歩いていたら京大人文科学研究所の建物があり、それがコロニアル調っていうんですか? いかにも素敵な建物なんですよ。今出来ではぜったいにムリな、美しくゆったりとした建物。建物見てるだけでも「選ばれた人びと」であることはわかるのである。
 登場する学者は、なんか誰も彼も恵まれてるというか、その余裕によってもたらされたリベラルな知性なんじゃないか、という気持ちが起きる。なぜか東京の学者にはそういう気持ちにならないんだが、それはやっぱり京都の学者のカッコ良さのせいでしょうなあ。

週刊朝日 2014年3月7日号