『ミラー・ボール』ニール・ヤング
『ミラー・ボール』ニール・ヤング
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 1995年1月12日、ニール・ヤングは、ニューヨークのウォルドフ・アストリア・ホテルで開催された第10回ロックンロール・ホール・オブ・フェイム授賞パーティーに出席している。「生死にかかわらず、25年以上にわたってロックの歴史に貢献してきた」ことが条件の、いわゆる「ロックの殿堂」に迎えられたのだ。CSNとバッファロー・スプリングフィールドを差し置いての、49歳での殿堂入りだった。この日ニールは、レッド・ツェッペリンと《ホエン・ザ・リヴィ・ブレイクス》を聞かせ(YouTubeで確認できるはず)、アフター・パーティではフィル・スペクターのピアノで何曲が歌ったといわれている。『スリープス・ウィズ・エンジェルス』の次のステップを模索していた彼は、彼らとスタジオに入ることもかなり真剣に考えたそうだ。ニルヴァーナの残党とスタジオ入りすることも検討していたらしい。
 だが事態はそれとは異なる方向に進んでいく。ホール・オブ・フェイムのパーティーから数日後、ワシントンD.C.で行なわれたベネフィット・コンサートにクレイジー・ホースと参加した彼は、パール・ジャムのアンコールに一人で加わり、強い手応えを感じた(前日のリハも観ていたという)。そして、ほぼそのままという感じでシアトルに向かい、彼らの『Vs.』と『ヴァイタロジー』を手がけていたプロデューサー、ブレンダン・オブライエンとともに、わずか4日でアルバムを仕上げてしまったのだ。この間、クレイジー・ホースの面々とデイヴィッド・ブリッグスは蚊帳の外だった。
 すでにパール・ジャムが巨大な存在になっていたため、所属レコード会社からはかなりの圧力があったようだ。結局、バンド名はクレジットしない、中心人物エディ・ヴェダーの曲は収めない(実際には2曲録音されていた)などの条件をなんとかクリア。同年6月にリリースされたのが、『ミラー・ボール』だった。このあとニールはヴェダー抜きのパール・ジャムとヨーロッパ・ツアーも行なっている。
 『ミラー・ボール』はライヴに近い形で録音されたもの。リハーサルにもほとんど時間をかけていないはずだ。ニールは20歳前後下の彼らとの自然発生的なセッションを心から楽しんだようで、全編、エネルギーとスリルに満ちている。3本のギターが対等の立場で鳴り響き、ベースとドラムスが重くてしかもスピード感にあふれたビートを刻み、エディとニールのヴォーカルが気持ちよく絡む。ゴッドファーザー・オブ・グランジとも呼ばれたニールとって、これは、カート・コバーンの自殺という衝撃的な事件に精神的な意味で決着をつけるためにも、必要なプロジェクトだったのかもしれない。[次回12/16(月)更新予定]

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大友博

大友博

大友博(おおともひろし)1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。dot.内の「Music Street」で現在「ディラン名盤20選」を連載中

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