順風満帆の時ではなく、逆風にさらされた時にこそ人間の真価は発揮される。流れに棹さすことは容易だが、逆境に抗い立ち向かうことには肉体的にも精神的にも大きなパワーが必要となる。仁志耕一郎は、《逆風》の男たちを好んで描く作家なのではないだろうか。
仁志耕一郎は2012年に二つの新人賞を受賞してデビューを果たした。すなわち第七回小説現代長編新人賞を『玉兎(ぎょくと)の望(のぞみ)』で、第四回朝日時代小説大賞を『無名の虎』で。同じ年に複数の作品を完成させ、ましてや二つの大賞を射止めるのは極めて異例。それまでに蓄えた実力がなければ不可能なことであろう。
後者の最終選考発表の際に載ったプロフィールによれば、仁志氏は1955年生まれ。広告業界に身を置きながら、40歳代半ばで小説家を志望したという。それから20年後にようやくその願いが実を結んだことになる。この時期こそ仁志氏が《逆風》に抗った時だったのかもしれない。
『玉兎の望』の主人公は、鉄砲鍛冶の村で名高い北近江国友村の藤兵衛である。時代は19世紀初頭、太平の世が続く文化年間。村はろくな鉄砲も作れない年寄四家に牛耳られ、残りの平鍛冶衆は極貧にあえぎ、藤兵衛と好き合った同業の娘も祇園の芸妓に売られてしまう。だが藤兵衛は大口径の鉄砲を開発するなど、持ち前の技量とくじけない心で、自らと村の未来を切り開いていく。
『無名の虎』は武田晴信に仕える武士が主人公だ。軍兵衛は侍大将も夢ではない勇猛果敢な武士だったが、利き腕を負傷したことで運命が変わってしまう。戦陣に出ることが叶わなくなった軍兵衛は弟に家督を譲り、他家の猶子となり川除普請奉行の役に就く。甲斐を治める若き当主武田晴信が、版図拡大以上に苦労していたのが、領内をたびたび襲う水害だった。多くの川が複雑に流れ込む甲府盆地は頻繁に起きる大洪水に悩まされていたのだ。軍兵衛は戦に出られなくなった失意を乗り越え、治水に取り組むが、自然相手の戦いは一朝一夕に終わることがなく、より過酷な試練を軍兵衛に与えていく。
仁志氏は東日本大震災の救援に向かう自衛隊と遭遇したことがきっかけでこの作品を思いついたという。「治水に奮闘する主人公の苦難と、陰で支え続けた人々を描いた」物語は「東日本大震災で被災した方々への応援歌であり、被災地に向かう自衛隊やボランティアの方々への賛歌」であると受賞の言葉で述べている。その言葉に違わず、軍兵衛の苦闘を通して、あの災害に立ち向かっている人々の姿が二重写しになって迫ってくる。
そして『玉繭の道』は、京の商人茶屋四郎次郎清延を主人公に据えた物語だ。
徳川家康はわずかな手勢のみで堺にいた。駿河を拝領した返礼のため家康は安土城に出向いたのだが、その際に織田信長から堺見物を強く勧められたためだ。四郎次郎は家康誅殺の陰謀ではないかと危惧を抱く。現に丹波亀山城には明智光秀率いる軍勢が待機していた。ところが明智勢は家康ではなく本能寺の信長を襲う。だが家康の危機が去ったわけではなかった。四郎次郎は家康の家臣団に随行し、最短距離で伊勢に抜ける伊賀街道をひた走る。
武田信玄に大敗北を喫した三方原の戦いと並ぶ家康最大の危機といわれたのがこの時のこと。本能寺の変から難儀を極める逃避行の描写はスピーディであるだけでなく緊迫感がたっぷりで、知らぬ間に物語の中に引き込まれる。
四郎次郎は呉服商人でありながら、武器弾薬を用意するなど、家康贔屓の男だ。《商人侍》という周囲の揶揄にも構わず家康のために尽くすことが生きがいなのだ。ところが無事領国に戻った家康が出兵する間もなく、異例の速度で京に戻った羽柴秀吉が光秀を討ち、天下は秀吉に転がり込んでしまう。
ここに家康の天下を夢見た四郎次郎の望みは、一度は断たれてしまう。しかも長久手の戦いで家康に煮え湯を飲まされた秀吉は、家康に力を貸す四郎次郎に目をつける。
物語の後半は、隠忍自重を続ける家康を横目に見やりながら、武器商人から脱しようとする四郎次郎の後半生が描かれる。大商人の息子という恵まれた立場ではあるが、やはり時代の《逆風》に遭い、愛する者との別れを契機に、自分の生き方を振り返り、これからのことを模索し始める。この四郎次郎の姿は、まさしく仁志氏がこれまで創造してきた主人公たちと共通している。時代、身分、そして職業の違いこそあれ、仁志氏が描く主人公たちは挫折を味わい、一度は屈しても必ず立ち上がる。その姿に勇気づけられる読者は多いはずだ。
《逆風》の時代にふさわしい物語を堪能してほしい。