



――無類のカメラ好きと伺ってますが。
カメラは50台、いやピーク時には100台くらいは所有していたんじゃないかな。ぼくは昭和16(1941)年生まれで、戦後の昭和23年に小学校に入った。そのころの少年雑誌の付録は紙製のカメラが多く、父親に手伝ってもらったけど、うまくできなかった。でも、それがカメラとの出合いでした。その後、小学校3年生のときにスタート35を手に入れて、中学へあがってから父と共用で使っていたのが、タロン35(日本光測機工業)というカメラでした。クラスにはニコンやキヤノンを持っているやつがいて、タロンはちょっと肩身が狭かった。先生もひどくて、「栗本、ジロン(次郎)やサブロン(三郎)はないのか?」なんてからかわれたりしてね。当時は二眼レフのリコーフレックスが大ヒットし、また国産一眼レフが出始めたころで、ペンタプリズムがつく前のアサヒフレックスなどの時代。友人たちが持っていたカメラのほうがよく見えて「あの娘にフラれたのも、キヤノンをもっていないからだ」なんて考えたこともあったね。(笑)
初めて自分の金で買ったのは、ミノルタSR-T101です。これはレンズがよかったですね。そして40代になると、もう反動でライカやニコン、ハッセルなどを「チクショー、チクショー」と買い集めてあっという間に100台です。もっとも購入してすぐ手放したり、ずいぶん人にあげたりもしたので、ぼくの手元を通り過ぎていったカメラはのべ1000台くらいになるんじゃないかな。議員だったころは仲間の政治家に配ったこともある。(笑)
――すごい数ですね。そのカメラでおもに何を撮っていたのですか?
当時は神田にある明治大学に勤めていたから、その辺りの街角スナップとか、講演に行った先の風景や建物、あとは動物が好きなので家で飼っていたネコをよく撮ったなぁ。一時期は凝りに凝ってカラーのプリントも自分でやってましたよ。ちょうど仕事がものすごく忙しい時期だったのに、寝る時間も削って暗室にこもってました。かみさんはあきれてたけど好きなことをやる時間って無理やりでも作っちゃうんだよね。原稿の締め切りが過ぎていても、カメラ屋に買い物に行っちゃったり(笑)。そのころ中古のカメラ屋とはずいぶん親しくなりました。
道具好きなんです。10年ほど前に脳梗塞で倒れてからは、リハビリのためにゴルフを始めて、そうすると今度はゴルフ用品の中古屋ばかり行くようになって。カメラ屋のほうは「あいつ最近こないな」なんて思っているかもしれない。
――最近は、どのようなカメラをお使いですか?
脳梗塞をやってから、マニュアルのカメラはなかなか使いこなせなくなって、もっぱらデジカメです。現在は中央アジア研究がメーンなのでキルギスの調査によく行くのですが、そのときに持っていくのはクールピクス8400と8800VR。ニコンのコンパクトデジカメはいいですよ。精細な感じで極めてシャープに撮れる。8400のレンズは35ミリフィルム換算で、24~85ミリだから広角専用。8800VRは、35~350ミリで手ブレ補正が利くので望遠で使っています。レンズ交換でなく、カメラ交換。1日に200~300枚撮るので、三脚を付けている時間がない。
それにオリンパスSP-550UZ。28~504ミリと使え、手ブレ補正がついているのがいいですね。気持ちとしては、EOS5Dに28~135ミリのズームをつけて使いたいんだけど重くてね。助手と一緒じゃないと持っていかない。今持っているカメラは約50台。ほとんどがデジカメで、一眼レフはソニーに替えつつある。ミノルタ、ライカ派なんです。ツァイス派じゃなく。やっぱりいちばん好きなカメラは、ライカM6だなぁ。シャッター音をたまに聞きたくなる。これだけはさすがに手放せないなぁ。
※このインタビューは「アサヒカメラ 2008年3月号」に掲載されたものです