『ラスト・ネヴァー・スリープス』と『ライヴ・ラスト』を生んだ1978年秋のツアー終えると、ニール・ヤングはしばらく、ステージに立っていない。記録によれば、79年から81年の3年間で、ゲスト参加も含めてわずか2回。彼がずっとこだわってきた創作スタイルを考えると、ちょっと信じがたい数字だが、それには大きな理由があった。
ニールとペギ・ヤングの長男ベンが生まれたのは、1978年11月28日。つまり、ラスト・ネヴァー・スリープス・ツアーが終わった直後のことだ。しばらくすると、ベンは、運度や言語などさまざまな障害を負って生きていかなければならないことが判明する。脳性麻痺だった。ニールとペギは、マネージャーのエリオット・ロバーツなど数人にしかそのことを伝えず、治療や将来の展望に関するリサーチを徹底して行なったという。それが、この3年間だったのだ。
80年代の幕開けと同時に、ニール・ヤングは大きな壁に突き当たった。それまではどんな壁も突き崩してきたが、これは、きちんと受け止め、ずっと抱えていかなければいけない壁だった。やがて、ベンとの共生がニールの人生にとっての大きなテーマとなり、その暮らしのなかからあらためて豊かな音楽が生まれていくこととなる。だがそこには、僕たちの想像をはるかに超えた苦難や苦悩があったはずだ。
加えて、音楽制作や流通をめぐる環境や状況の激変もあり、ニールはこれから、難しい10年間を送ることになる。迷い、裏切り、など、さまざまな形で批判されることも増えた。その第一弾が、80年11月発表の『ホークス&ダヴズ』。ロナルド・レーガンが第40代大統領となる選挙の直前という時期に、愛国者的な方向性を強く打ち出していたこともあり、古くからのファンを失望させた問題の作品である。
サイド1は、未発表に終わった『ホームグロウン』など70年代半ばのセッションからの寄せ集め、サイド2はベン・キースを中心にしたバンドとのナッシュヴィルなどでの新録音という内容。全体的にカントリー色が強く、それがまた右寄りのイメージに拍車をかけていた。とりわけタイトル曲は強烈で、本気だったのか、彼一流のブラック・ユーモアだったのか、未だに理解できずにいる。[次回9/16(月)更新予定]