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1970年代の半ば、ロックをめぐる状況は大きく変わろうとしていた。そのもっとも顕著な現象が、過度な商業化。60年代後半の激動の時代、ロックはカウンター・カルチャーを象徴する音楽であったはずなのに、いつのまにか、数百万枚もアルバムを売り上げるアーティストが珍しくなくなっていた。もちろん売れること自体は悪でも罪でもなんでもないが、自然な流れとして、売上が評価の尺度として定着してしまったのだ。大きな変化のもうひとつは、明らかにその反動といえる、パンクの台頭。自らも、「ハート・オブ・ゴールド」が図らずも全米1位を記録したことからさまざまな苦悩を味わい、徹底して自分らしく表現することにこだわってきたニール・ヤングは、そういった時代の変化を独自の視点で受け止めた。その最初の成果が、「消え去るよりは燃えつきたほうが」、「サビは眠らない」というフレーズをロック史に残すこととなる名盤『ラスト・ネヴァー・スリープス』だ。
77年の夏、ちょうどイーグルスの『ホテル・カリフォルニア』が驚異的な売上を記録していたころ、ニールは、サンフランシスコ半島南端の町サンタクルスでローカル・ミュージシャンたちとザ・ダックスというバンドを組み、ジャム的なライヴを楽しんでいた。この時期、バンド仲間のひとりだったジェフ・ブラックバーンやディーヴォのメンバーたちからヒントを得る形で書き上げたのが「マイ・マイ、ヘイ・ヘイ(アウト・オブ・ザ・ブルー)」。アルバム『ラスト・ネヴァー・スリープス』はこの曲を核につくり上げられていった。
サイド1には、翌78年春のソロ・ライヴから「マイ・マイ~」など3曲、それ以前の録音から「ポカホンタス」など2曲。サイド2には、同年秋のクレイジー・ホースとのツアーから4曲。これ以降ライヴの定番となる「パウダーフィンガー」で幕を開け、「マイ・マイ~」のエレクトリック・ヴァージョン「ヘイ・ヘイ、マイ・マイ(イントゥ・ザ・ブラック)」で幕を閉じるという構成だ。
こう書いてくると、ライヴ盤と思われてしまうかもしれないが、拍手や歓声は可能なかぎり消去され、また若干のオーヴァーダブもなされているので、ライヴ音源を生かしたスタジオ盤と受け止めたほうがいいだろう。ライヴに関していうと、79年夏に『ラスト~』が発売されるとニールは、ほとんど時間をおかずに、同コンセプトのライヴ集を、70年代を締めくくる作品として発表することとなる。[次回9/2(月)更新予定]
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