『太陽への旅路』 スティルス・ヤング・バンド
『太陽への旅路』 スティルス・ヤング・バンド
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 すでに書いたとおり、74年の夏、CSNYは大規模なリユニオン・ツアーを行ない、そのまま、『デジャ・ヴ』以来ということになる新作の完成を目指してスタジオにも入っている。しかし、このプロジェクトは暗礁に乗り上げてしまう。周囲からの期待に応えられなかったわけだが、その後、クロスビーとナッシュはすぐにデュオとしての活動を再開。翌年秋『ウィンド・オン・ザ・ウォーター』という力の入った作品を発表したのだった。そして、これもまたすでに書いたとおり、直後に日本での公演を実現させている。

 スティルスとヤングは、CSNYのために書いた曲をそれぞれのソロ・アルバムに収めたりしていたが、76年、つまりバッファロー・スブリングフィールド結成10周年にあたる年が明けたころ、二人のプロジェクトにスタートさせることに合意。ニールの初来日公演と前後して、アルバム制作に着手した。当初は、クロスビーとナッシュも加わり、あらためてCSNYとしての作品を目指したといわれているが、結局はうまくいかず、同年秋、ザ・スティルス=ヤング・バンド名義のアルバムがリリースされている。

 ニールが書いたタイトル曲は、カナダ時代の想い出や、サンセットでのスティルスとの劇的な再会といったエピソードともつながるもの。誰もが認めるニールの代表曲のひとつであり、CSNのライヴでもしばしば取り上げられてきた名曲である。そのタイトル曲も含めると、ニール作が5曲、スティーヴン作が4曲という構成。ほぼイーヴンな関係が保たれているが、録音スタジオ(マイアミのクライテリア)やミュージシャンの顔ぶれはスティス主導で決められたようだ。そういったことも影響しているのか、アルバムとしてのまとまりには欠けている。ニールがスティルス・バンドに「ちょっとおジャマした」という印象の曲も少なくない。

 アルバム完成後の76年6月、発表3ヶ月前の時点で、ザ・スティルス=ヤング・バンドは全米ツアーを開始した。しかし、東海岸で18回目か19回目のステージを終えたあと、この公演旅行はスティルスのソロ・ツアーへの変更を余儀なくされている。移動の途中、ロードマップを手にとったニールが、メンフィス空港に向かうようツアー・バスのドライヴァーに指示し、そのままカリフォルニアに帰ってしまったからだ。[次回8/19(月)更新予定]

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