社会は幻想の本体として明滅を繰り返している。誰もが似たようなもので、明日恋をするかもしれないし、銀河の果てまで飛ばされているかもしれない。あるいは昨今漂い始めた匂いを嫌い、この土地から出て行くことを自ら選ぶか。与えられた属性を疑えば、否応無く冒険はやってくる。希求する者の本質的行為、それが旅だ。
米国籍をとるために志願兵となり、ベトナムに散った沖縄の青年。『戦場カメラマン』には、ジャングルに消えた呻吟のひとつとして、ここではないどこかへ旅立とうとしたその声と表情が収められている。著者の石川文洋も沖縄の出身。世界を歩こうと写真を始め、運命転じて生死を撮り続けるカメラマンになった。だが戦場という旅路は、手にしたものが銃であれカメラであれ、過酷を極める。何度読んでも心が火傷する。
自分は本来どこに立つべきなのか。居場所の無さを実感すれば、人は旅に出るしかない。少年時代をアフリカで過ごしたル・クレジオは、本国フランスに戻ってもその場所を見つけられず、中米のインディオと生活をともにする。『偶然~帆船アザールの冒険』は、彼のその視野がなければ紡ぎ得なかった、はずれてしまった者たちに捧げる彷徨と優しさの物語だ。陸地にはもはや安息の場所がない老人と少女。二人が大洋へ乗り出す時、海は夜光虫の煌めきをもって祝福する。
場所を探し求めるための旅路には、生きるための言葉と、時を経て内側に種をつける言葉の双方が必要だ。『コロンブスの犬』は、著者の管啓次郎が20代の頃、奨学金を得てブラジルに滞在した日々の詩的エッセイ集。ポルトガル語を学びながら、根を張ってしまった日本語と格闘する姿は、旅と言語の関係についてむしろ示唆に富んでいる。
※週刊朝日 2013年8月16・23日号