マクドナルドで隣に座った男の携帯電話を盗み、そこに何度も連絡をとってくる「母」を相手に息子を演じているうち、ついオレオレ詐欺をしてしまう俺。ひょんな流れとはいえ後悔の念もあったが、勝手に俺のアパートを訪ねてきたその「母」は、対面しても俺を息子と疑わない。「母」が暮らす家へ行ってもその態度は変わらず、〈俺が俺から離れてしまいそう〉な感覚におびえた俺は、久しぶりに自分の実家へ行ってみる。するとどうだ、実母はあなたなど知らないと言う。すったもんだの末、若い男が玄関から現れる……その男は、間違いなく俺だった。
 いつの間にか上司も親も、街中ですれ違う人々も俺になっていく。俺たちは互いの考えや思いを理解しあって最初は喜ぶが、さらに増殖が進んでしまったとき、俺たちは互いを否定しはじめる。どうしてこんな奴まで俺なのか、と。
 星野智幸の『俺俺』は、サラリーマンたちの同質化を鋭く問うた安部公房の『棒になった男』を髣髴(ほうふつ)とさせる。その上で『俺俺』が新しいのは、安部作品では棒と化した現代人をあくまでも人としてとらえ、それぞれが同じ俺であると認め合ったときにどのような行動をとり、社会には何が起きるか描ききった点にある。
 俺俺とは、自己と他者との境が消えた社会だ。同調しない他者が存在すれば、社会には異質が発生し、疎外が生まれ、孤独すら生まれる。だから、他者は排除される。そこで重視されるのは均一で同質であること。個性を尊ぶようなフレーズが蔓延する社会とは、裏返して見れば、実際にはいかに自己が軽く扱われ、俺俺化が進んでいるかという証でもある。
 あいかわらず強い同調圧力を受けつつ、激しい流動化に晒(さら)されている現代人のアイデンティティの脆弱さ。奇想をもってその危機と可能性を描いたこの傑作が、亀梨和也主演で映画化された。俺俺の社会をこの目で観られるとは、今から楽しみだ。

週刊朝日 2013年5月24日号

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