食わず嫌いはいけないなあと反省した私。先月のこの欄で取り上げた『女性としての私』の著者・長谷川理恵さんご推薦、稲盛和夫『生き方』を読んでみた。2004年から部数を重ね、ついに100万部を突破したロングセラーである。
 著者は京セラの創業者にして、DDI(現KDDI)そしてauを立ち上げたカリスマ経営者。京セラを創業したのは1959年、27歳のときというから、高度成長→バブル経済→IT革命という経済発展とともに歩んできた方といえよう。
 一読した印象は、企業人というより宗教者の説話みたい。「プロジェクトX」にも似たビジネス上の成功秘話はいくらでもあるだろうに、それは一切語らず「魂を磨いていくことが、この世を生きる意味」「人生の真理は懸命に働くことで体得できる」など、ひたすら精神論を説く。
 しかし、たとえば〈仕事がいやでしかたがないと感じても、もう少しがんばってみる。腹をくくって前向きに取り組んでみる。それが人生を大きく変えることにつながるのです〉といった言葉で得をするのは誰なのか。経営者ならぬ賃労働者のみなさまはよーく考えたほうがいい。
 唯一おもしろかったのは、若き日の稲盛が2泊3日のある経営セミナーに参加した際の逸話である。講師の本田宗一郎の話を聞くために、温泉に入った後、大広間で待っていた参加者たち。作業着姿で現れた本田は彼らを一喝したという。〈みなさんは、いったいここへ何しにきたのか〉と。〈温泉に入って、飲み食いしながら経営が学べるわけがない。(略)やることは一つ。さっさと会社に戻って仕事に励みなさい〉。そしてもう一言。〈こんな高い参加費払ってくるバカがどこにいる〉
 稲盛は「畳水練(たたみすいれん)」をいさめる本田に感激したというが、それなら自身も本書の読者に同じ言葉を贈るべきだろう。頑張れば報われる幸せな時代を生き、後に得度(とくど)もなさった方の人生訓。あちらは説教のプロである。くれぐれも騙されませんように。

週刊朝日 2013年4月5日号

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