「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」。現代を代表する歌人の河野裕子が死去する前日に詠んだ最後の歌だ。本書は夫であり歌人の著者が、河野が癌に侵されてからの10年を包み隠さず振り返っている。
 河野が病床で書きつづった歌を家族が整理する光景はテレビでも取り上げられており、一家の濃密な関係を目にした人も多いだろう。ただ、それは壮絶な体験を経てようやくたどり着いた関係だ。精神に変調をきたした河野は、包丁を畳に突き立て、家族に罵詈雑言を浴びせるなどの奇行も少なくなかったという。著者は当時を死にたかったと思い起こす。
 河野と一家を救ったのは歌だった。癌再発と時を同じくして、夫婦で新聞連載を始めることで、夫婦は絆を深めていく。結果、冒頭の歌も生まれたのだ。
 ただ歌は同時に著者を苦しめる。河野の死後、残された歌を見つけて「あの時、なぜ気付かなかったのか」と自責の念にかられる。河野の歌に込めた思いを汲んだ本書が妻への最大の弔いなのだろう。

週刊朝日 2012年9月28日号