小泉の実家から近いレジャーランド平和島のプールは冬場、ローラースケート場になるので、そこに半年間、バンクを置かせてもらうことになった。そこに沖縄でローラースケート場を経営する会社の東京支社長がやってきて、「ローラーゲームの小泉さんですね。アドバイザーをしていただけませんか」というのだ。
当時、ブームが去ったボウリング場を改装する形で、ローラースケート場が全国で増え始めていた。音楽をガンガンかけ、ネオンがギラギラのローラーディスコというもので、その第1号が、彼らが経営する沖縄の那覇ローラースケートランド。小泉は、そのアドバイザーとなり、スケートも教えた。それが79年のこと。同じ年に発売されて全世界で話題になったソニーのウォークマンのキャンペーンが、このローラーディスコで行われた。小泉の人生は、あちこちで、時代を象徴する出来事と絡む。
■新支配人として若者たちに影響
好事魔多しというが、81年、スクランブルローラーで事故が起きてしまう。ある選手のヘルメットが飛んでしまい、頭から出血する重傷を負ったのだ。責任を感じた小泉は彼が回復するまでの約2年、スクランブルローラー活動を自粛し、治療費と生活費とアパート代も支払い、送り迎えはもちろん、土日には家の手伝いにも行った。
同じ頃、東京都板橋区志村にローラーインTОKYО(以下RIT)というローラースケート場がオープンした。ローラーディスコの第2号となる店は、かつての東京ボンバーズの練習場から2キロも離れていなかった。その経営者が代わり、支配人を紹介してほしい、と相談された後楽園が送り込んだのが小泉だった。
「君だったら我々の考えを理解しているから、君に支配人になってもらって、敵対せず、共にファンを増やしていこう、と言われたんです」
小泉は、まず原宿のスクランブルローラー仲間を呼び、華のあるスケート場にした。自らスケート指導もし、ディスコ調の音楽をガンガンかけた。