そんなふうに、国葬に心をかき乱されたひと月、葬儀のCMですら穏やかに見られない状況だ。親しい友人の葬儀にも参加できず、自分の葬儀の心配をしながら積み立てをし、なるべくお金のかからない葬儀に奔走するこの国の生活者の感覚のわからない人たちが、自分たちの威信のためだけに、税金を無駄遣いしている。この国葬を、岸田さんは「民主主義を守るための国葬」と言ったが、閣議決定で何でも決められる政治に、もう民主主義を語る資格はないのではないか。税金がこれほど不平等に使われる今、民主主義を盾にするような大義名分そのものがうそ臭い。
安倍さんの遺骨は、国葬によって、16億6千万円もかけて恭しく奉られ、最大限の敬意とともに鎮魂される。一方、安倍さんが虐げ続けた沖縄では、沖縄戦で亡くなった人の遺骨が混じった土砂が辺野古の埋め立てに使われる懸念が今も残っている。この国葬が葬るのは、私たちの痛みなのか、それとも岸田政権の未来なのか。私たちの民主主義が問われるのだと思う。