大学時代には歯が立たなかったヘーゲルも読んだ。父親は高齢者用の交通パスをよくなくす。「ない」「あるはず」と言いながら捜し続ける。
「ヘーゲルは『あるとないは同じ』と言っていました。パスが『ない』というのも、どこかに『ある』からこそ『ない』。ずっと『ある』と『ある』ことを実感できないので、時に『ない』ことによって『ある』。親父を通してヘーゲルも理解できました」
父親の言動を何とか理解しようとした結果、認知症に哲学の視点を持ち込んだ異色のノンフィクションが誕生した。哲学や宗教の古典のほか、シェークスピア『リア王』やサミュエル・ベケットの作品なども認知症の物語として再解釈される。
認知症はアルツハイマー型、レビー小体型が知られているが、高橋さんはもう一つ、「家父長制型認知症」を主張する。母や妻に頼ってきたために自立した生活ができない男性特有の症状で、一種の生活習慣病だと話す。
父親は3年前に亡くなった。
「横浜大空襲ですべてを失い、親父は小学校も卒業していないんです。『学問がないと孤独も何もありません』と言うくらいで、物事を徒手空拳で認知する人。正常な認知って何ですか?と問いかけるようで、それを伝えたいという気持ちはありますね」
(ライター・仲宇佐ゆり)
※AERA 2023年3月6日号