桶狭間の戦い、川中島の戦い、備中高松城の戦い――歴史に名を刻んだ戦国の合戦は枚挙にいとまがない。週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』では「戦国の大合戦ランキング」を特集。戦国の期間に関しては異説も多いが、この大合戦ランキングでは、応仁の乱が起こった応仁元年(1467)から「元和偃武」を迎えることとなる慶長二十年(1615)の大坂夏の陣までの約150年間として、その間に起こった大小数多くの合戦のなかから厳選した戦いを、「兵力」「采配力」「武力」「革新性」「歴史への影響力」の5つの基準で採点しランキング化。その上位、ベスト10のなかから歴史を彩った合戦をシリーズで解説する。今回は、4~6位を紹介しよう。
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【4位】小田原城攻め
関白として朝廷の権威を代行し天下統一を進める豊臣秀吉に対し、北条氏政・氏直父子は上洛臣従を渋るばかりか豊臣方の真田昌幸から上野名胡桃城を奪う。怒った秀吉は討伐を宣言すると、天正十八年(1590)三月一日に京・聚楽第を出陣。豊臣秀次、徳川家康、前田利家、織田信雄、蒲生氏郷、それに水軍衆を加え総勢20万以上が関東に集結。先鋒部隊は伊豆山中城を手始めに、北条方の支城を次々と攻め落としていく。
この間、秀吉は四月三日に小田原城を見分すると翌日、箱根湯本の早雲寺を本陣と定め、本軍15万の大軍による北条方の本拠、相模小田原城包囲を本格化する。四月五日からは石垣山一夜城の築城工事も開始され、三カ月弱という短期間で城が竣工すると、小田原城に籠もる8万の北条軍は見下ろされる形となり、みるみる士気を低下させていく。各地の支城の失陥によって孤立した小田原城は、内部の分裂もあって七月五日に氏直が降伏を申し入れ、戦いは豊臣軍の勝利に帰した。
■小田原城攻め(合計点:83点)
【動員兵力】20 【采配力】15 【武器】15 【革新性】18 【歴史への影響力】15
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【5位】耳川の戦い
天正六年(1578)、豊後の大友宗麟は3万(4万とも)の軍勢を日向に進攻させ、十月二十日に小丸川北岸の高城を攻撃したが、高城の島津軍は自然の地形を利用して頑強に抵抗した。島津義久は総動員をかけ1万7000(2万7000とも)の兵力で決戦に臨む。十一月十一日、義久の弟・義弘が大友軍先鋒との戦闘を制すると、翌十二日早朝、大友軍の田北鎮周隊と佐伯惟教隊が切原川を渡河し島津軍の本田親治隊・北郷久盛隊を破る。伊集院忠棟隊も劣勢となった。
だが、ここで歳久隊が東側面から突撃。義弘隊も東側に重心を移した大友軍に突撃を敢行する。さらに義久も根白坂から突撃を開始、高城の家久・山田有信も出撃して敵の後背を衝く。大友軍は三方から攻め立てられあっけなく敗走した。島津軍の見事な連携プレーは、采配力に最高点が付けられる。島津軍の追撃は北の耳川に達するまで続き、大友軍は完全に潰滅。「七里にわたって敵の死骸が散乱した」(『鹿児島外史』)という。
■耳川の戦い(合計点:81点)
【動員兵力】14 【采配力】20 【武器】17 【革新性】17 【歴史への影響力】13
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【6位】賤ヶ岳の戦い
天正十一年(1583)三月十二日、越前北ノの庄の柴田勝家軍3万が北近江の柳ヶ瀬に着陣。一方の羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)も十九日に5万の兵を率いて木之本に布陣。内中尾山ほかに強固な陣城を築いた柴田軍に対し、羽柴軍も長浜城を本陣とし田上山に秀長(秀吉弟)、岩崎山に高山右近、大岩山に中川清秀、賤ヶ岳に桑山重晴、西の海津に丹羽長秀が配置され、柴田軍に備える長大な土塁と濠を築いた。持久戦が続く中、秀吉は勝家に呼応する織田信孝の岐阜城を攻めるべく留守居の兵を残して美濃へ移動する。
柴田軍は四月二十日早朝から佐久間盛政(勝家の甥)隊が大岩山砦への迂回奇襲を敢行。この動きを知った秀吉は大垣から木之本まで50キロメートルあまりを素早く大返し、二十一日午前0時頃退却を開始した佐久間隊に襲いかかった。背後の前田利家隊が突然後退を始めると、佐久間隊は潰走。動揺した勝家本隊も戦わずして敗走した。大垣から電光石火の移動を実行した秀吉の采配力が光った戦いだ。
■賤ヶ岳の戦い(合計点:80点)
【動員兵力】16 【采配力】18 【武器】14 【革新性】16 【歴史への影響力】16
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※週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』から