
■対馬丸を沈めた「英雄の艦」
パールハーバーの史跡は東西約2.5キロの公園として整備され、そこには「事実」としての展示物が淡々と置かれているように尾辻さんの目には映った。
「この場所をどう見るかは、訪れた人の感受性にゆだねられている。だから、人によっては、さらっと見るし、引っかかる人はいくらでも引っかかって、ああ、そうか、と思う。最初は太平洋戦争の始まりとなったアリゾナ記念館を見てこようか、と行ったら、こんなものもあった。潜水艦ボーフィン。たくさん敵の船を沈めた『英雄の艦』です」
そう言って、尾辻さんはボーフィンの艦橋付近を写した写真を見せてくれる。そこに描かれた4つの旭日旗と39もの日章旗に目が引きつけられた。
「これは『キルマーク』っていうんですけれど、これだけ日本の船を沈めた、ということです。旭日旗は軍艦で、ほかは貨物船。その一隻が『対馬丸』です」
1944年、沖縄に迫りくる米軍の攻撃に備えて、対馬丸は疎開船として那覇港を出港し、長崎へ向かった。しかし、途中でボーフィンの魚雷攻撃を受けて沈没。乗っていた800人以上の学童のうち、救助されたのはわずか60人ほどだった。
「なので、この潜水艦を見ると『くそったれ、こいつか』と、思うわけですよ。対馬丸のことは説明文のどこにも書いていない。でも、調べていくと、そういうことを知るわけです」

■真珠湾から長崎へ
尾辻さんが、本格的にパールハーバーの取材を始めたのは16年。現地に通ううちに、さらに長崎とのつながりが見えてきた。
冒頭の暗号電文「新高山登レ一二〇八」は山口県・岩国沖に停泊していた連合艦隊の旗艦、戦艦長門から打電されたものだ。
「それを送信所が中継したんですが、当時、国内には3カ所の送信所があった。そのうちの1つが唯一現存する長崎県佐世保市にある針尾送信所なんです。それで取材に行きました」
パールハーバーの博物館には真珠湾攻撃で使用された「九一式魚雷」も展示されている。
「でも、あれはレプリカで、本物は三菱重工業長崎造船所史料館に置かれている。実はこの魚雷を作ったのが三菱の長崎兵器製作所なんです。それを18年に知って、撮りに行った。要するに、調べていくと、パールハーバーと長崎がつながってくる。そして、あの戦争で最終的に長崎に原爆が落ちる。これはきちんと取材しなければ、と思いました」
アリゾナ記念館のビジターセンターには真珠湾攻撃後の日米の戦闘についての展示があり、原爆投下のコーナーには「禎子の折り鶴」が置かれている。広島市の平和記念公園にある「原爆の子の像」のモデルで、白血病により12歳で亡くなった佐々木禎子さんが折った小さな鶴だ。特別なケースに収められ、それを接眼レンズ越しにのぞいて見る。
「そのことは以前から新聞記事を読んで知っていたんですけれど、実際にパールハーバーで見たときは、びっくりしました。先ほども言いましたが、ここは米国軍人にとっての聖地なわけですよ。そこに、原爆で亡くなった少女が平穏を願い、折った鶴が展示されている。いったいこれは何なんだ、と」