2000年にG1での5連勝を含む8連勝を達成して「世紀末覇王」と呼ばれたテイエムオペラオーは21世紀となった2001年も天皇賞(春)を制したが、宝塚記念では宿敵メイショウドトウに初先着を許しての2着。天皇賞(秋)はアグネスデジタル、ジャパンカップはジャングルポケットと年下の馬に敗れての2着と、覇王の時代の終わりが近いことを予感させていた。
それでも有馬記念では秋に先着されたライバル不在もあって1番人気に。だが中段で前を行くメイショウドトウを見る形でレースを進めたテイエムオペラオーは、この年の菊花賞馬マンハッタンカフェに差し切られる完敗。先行していたトゥザヴィクトリーやアメリカンボス、そしてメイショウドトウもとらえられず5着に終わった。
2004年に天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念の秋古馬三冠をテイエムオペラオーに続いて達成したゼンノロブロイも、翌05年は天皇賞(秋)が2着、ジャパンカップは3着と1番人気に応えられず連敗。有馬記念では無敗の三冠馬ディープインパクトに次ぐ2番人気に推されていたが8着に沈んだ。
この有馬記念ではディープインパクトがハーツクライに敗れて初黒星を喫した衝撃が強烈だったため、ゼンノロブロイの引退レースだったことを記憶しているファンは少ないのではなかろうか。そういう意味でも不憫だった。
牝馬ながら2歳から5歳まで長く活躍し、牡馬とも互角に渡り合ってG1レース6勝を挙げたブエナビスタも、最後は11年の有馬記念で見せ場なく敗れている。この年のブエナビスタは天皇賞(秋)でトーセンジョーダンの4着と国内では久々に連対を外したものの、続くジャパンカップではトーセンジョーダンを2着に下して優勝と、まだまだ一線級の実力を示していた。
ラストランの有馬記念は、この年の三冠馬オルフェーヴルに次ぐ2番人気。しかしレースでは内の4番手という絶好位から抜け出しを図るも、そこから伸びることなく後退していった。着順は国内レースに限ればキャリアで最も悪い7着。後方待機から差し切ったオルフェーヴルに時代の主役を譲り、ターフを去っていった。