巨人時代にエースと呼ばれた西武・内海哲也が、昨季限りでの現役引退を発表した。内海のように他球団に移籍したあとでも“巨人のエース”の名がついて回る投手もいれば、エース級の活躍を見せたシーズンがありながら、安定した成績を続けられず、巨人のエースになり切れなかった男たちも少なくない。
【写真】キャリアの“踏ん張り時”に来ている巨人の選手といえば
1980年代前半、江川卓、西本聖とともに先発三本柱を構成しながら、真のエースになることができなかったのが、定岡正二だ。
鹿児島実時代に74年夏の甲子園で4強入りをはたし、甘いマスクから一躍女子中高生のアイドルになった定岡は、80年6月5日の中日戦で待望のプロ初勝利を挙げると、同年は9勝8敗、防御率2.54で江川、西本に次ぐエース格に成長。翌81年も、4月11日の阪神戦で準完全を達成するなど、11勝を挙げ、82年には自己最多の15勝を記録した。特に広島戦は抜群に相性が良く、“広島キラー”の名をほしいままにした。
翌83年も、5月26日の広島戦でハーラー単独トップの7勝目を挙げ、チームの首位独走に貢献したが、6月に腰を痛めてから急失速。登板するたびにKOされる定岡に、投手コーチは「ブルペンではいいんだ。コントロールもきちっとしている」としながらも、「不思議なんだよね。(マウンドに上がると)球が真ん中に集まっちゃう」と首を捻った。
ミニキャンプや2軍での再調整も効果が上がらず、7勝1敗から6連敗の7勝7敗でシーズンを終えた。
不振は翌年以降も続き、84年秋からリリーフに配置転換。そして、85年オフに近鉄へのトレードが決まると、肘痛が慢性化し、現役を続けるかどうか悩んでいた定岡は「知らない球団に行って、1からやり直すだけの気力も体力もない」と巨人ひと筋を貫き、29歳でユニホームを脱いだ。
一時は引退も覚悟したどん底から一躍エース候補に名乗りを挙げたのが、宮本和知だ。
84年にドラフト3位で入団した宮本は、1年目は貴重な左の中継ぎとして38試合に登板したが、2年目以降は出番が減少。そんな矢先の88年秋に肘を痛め、手術を受けた。