当時は手術から復活した例が少なく、「もうダメかも」と絶望的な気持ちになったが、翌89年、半年間のリハビリを経て復帰すると、8月以降5勝を挙げ、10月6日の大洋戦では胴上げ投手に。さらに近鉄との日本シリーズ第7戦でも日本一の胴上げ投手と一気に運気が上昇した。
そして、翌90年も桑田真澄と並ぶ14勝をマーク。2年連続20勝の斎藤雅樹とともに先発三本柱になり、9月8日のヤクルト戦では、延長10回を投げ抜いて通算3度目の胴上げ投手に。まさに野球人生の絶頂期だった。
だが、その後は谷間の先発やリリーフなど、便利屋的起用が多くなり、97年を最後に33歳で引退。
エースになれなかった理由について、宮本は自著「プロ野球超プレイ笑プレイ」(ワニブックス)の中で、同時期に斎藤、桑田、槙原寛己がいたことを挙げ、「3人のうち、1人がいなければ、宮本もエースになっていたはずだ」と悔しさをのぞかせながらも、「3人は技術的にも体力的にも素晴らしいし、僕には到底敵わない天性のスーパースターたち」と最大の敬意を表している。
00年代では、01年に13勝4敗で最高勝率に輝いた入来祐作の名が挙がる。
96年にドラフト1位で入団後、4年間で通算9勝16敗2セーブと伸び悩んだが、01年にチェンジアップを習得し、緩急自在の投球で、一気にブレイクした。
だが、好調は持続せず、登板ゼロに終わった03年オフに井出竜也との交換トレードで日本ハムに移籍した。
入来の亜大の後輩にあたる木佐貫洋も、03年に豪速球を武器に10勝を挙げ、新人王獲得。07年には自己最多の12勝を記録したが、翌年以降は低迷し、高木康成との交換トレードでオリックスへ。
07年に内海、木佐貫とともにローテーションを守り、14勝を挙げた左腕・高橋尚成も09年オフ、前年メジャー入りした上原浩治に触発され、日本一を手土産にメッツにFA移籍した。
ドラフト7巡目入団からエースに手が届くところまでのし上がったのが、東野峻だ。