その8年前の2014年2月、ウクライナでは親ロシア路線だった当時の大統領が市民の抗議を受けて逃亡し、親欧米路線の臨時政府が発足した。これに反発したロシアは3月、クリミア半島を一方的に併合した。
ほぼ同時に親ロシア派の武装勢力がウクライナ東部の一部を占拠し始め、ウクライナ軍と武力衝突した。戦闘は翌年に停戦合意が成立した後も続き、ロシアの全面侵攻が始まる前までに、すでに民間人も含めて約1万4千人が犠牲になっていた。
全面侵攻の直前、にわかに関心を高めた外国メディアがキーウに殺到したが、取材に答える市民たちはその「軽さ」をたしなめるように「私たちはもう8年間もロシアの侵略と戦っています」と付け加えるのを忘れなかった。当時、人々の間でしばしば交わされた言葉は「パニックにならず、備えよう」だった。
ウクライナに対するロシアの侵攻は、止められなかったのか。
14年のクリミア半島併合やウクライナ東部への介入は、そのときも軍事力で国境線を変えてはならないとする国際秩序への挑戦と受け止められていた。
欧米は、クリミア併合後にロシアを主要国首脳会議(当時G8)から排除し、さまざまな制裁を科した。
だが、エネルギーをロシアに頼る欧州では対ロシア政策で不協和音が生まれ、個別にプーチン政権と関係を結ぼうとする国が出てきた。米国ではプーチン氏への好感情を隠さないトランプ大統領が誕生し、対ロシア政策が政治の駆け引きの材料になった。日本は北方領土問題解決の好機とみて国際的に孤立したプーチン政権に接近した。
このとき、米国や欧州各国が欧米以外の国々も巻き込んで、もっと強くロシアに国際ルールの順守を促すことができれば、結果的に全面侵攻を防ぐことができたかもしれない。
ただ、全面侵攻直前の時期に関して言えば、米国やNATOが交渉で侵攻を止められた可能性は極めて低かったというのが大勢の見方だ。プーチン氏は、ロシアのペースで進んでいた米国、NATOとの安全保障をめぐる交渉でも、要求実現のため最後通告を突きつけることさえなく、一方的に打ち切っており、実際にその要求がどこまでプーチン氏にとって切実なものだったかにも疑問がある。欧米との交渉で時間を稼ぎながら、裏で着々と侵攻への準備を進めていたと考えざるを得ない。
ウクライナは本来、文化的・歴史的にロシアのものだった領土や住民を分け与えてできた「作られた国」だ――。プーチン氏は侵攻3日前の演説でそう主張し、ウクライナをめぐるゆがんだ歴史観も隠さなくなっていた。
2月24日、ウクライナは1991年の独立以来、最大の存亡の危機に立たされた。早朝のミサイル攻撃から間もなく、ロシア軍の戦車が東部、北部の国境を越えて地上戦を始めた。