ロシアによるウクライナ侵攻から1年の時が経過した。2月に入ってからもロシア軍はウクライナ東部を中心に攻撃を続け、各地で激しい戦闘が続いている。
【写真】プーチン氏の顔写真とともに「間抜けなプーチン」の文字が書かれた火炎瓶
世界を震撼させた1年前の2月24日、首都キーウでは何が起きていたのか。侵攻は防げなかったのか。朝日新聞取材班による新刊『検証 ウクライナ侵攻10の焦点』から一部を抜粋して紹介する。
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2022年2月24日、ウクライナの首都キーウ(キエフ)は曇り空だった。午前5時、ロシアのプーチン大統領は演説でウクライナに対する「特別軍事作戦」の開始を宣言。ほぼ同時にウクライナ全土へのミサイル攻撃が始まった。
ロシアによる侵略は回避されるのか、第3次世界大戦の危険さえはらむ戦争に突入するのか。私は侵攻が始まる前の1月にウクライナに入ったが、攻撃が始まる直前まで、この問いをめぐるウクライナの人々の考え方はさまざまだった。「どう考えても、ロシアにとって得にならない戦争をプーチンが始めるわけがない」と考えた人もいれば、21年暮れから新年にかけて、早々とロシアに近い東・中部からより安全とみられた西部や国外へ退避する人がいた。
ただ、退避しなかった人々もみなが必ずしも侵攻があり得ないと考えたわけではなかった。 全面侵攻のきざしは、21年はじめから現れ始めていた。
米国でバイデン大統領が就任して間もなくの21年春、プーチン氏はウクライナ東部との国境や、実効支配下の南部クリミア半島に計約10万人とされる部隊を集結させた。このときの部隊はいったん撤退したが、武器、弾薬はその場に残され、10月末に再び10万人規模とされるロシア兵が同じ場所に集結した。これを牽制する北大西洋条約機構(NATO)が黒海に艦船を展開し、双方が互いの目の前で演習に踏み切って、緊張は一気に高まった。
プーチン氏は強硬だった。米国とその同盟国に対し、NATOの拡大をやめ、最初に東欧諸国の加盟が決まった1997年の時点まで兵員・武器の配置を戻すこと、ウクライナのNATO加盟を認めないことを文書で確約するよう迫った。ロシアと米国、NATOの協議は侵攻の直前まで続いた。
当時、ウクライナの人たちの心境は複雑だった。