では、どうして織田家臣団の中でも羽柴秀吉と並んでもっとも信長の信頼が厚く、大軍を任された光秀が主君を弑逆するに至ったか。
鞆の浦に逃れた足利義昭の使嗾(しそう)とか、朝廷と近衛前嗣(前久)の陰謀とか、イエズス会の陰謀とか、果ては羽柴(豊臣)秀吉と徳川家康の共謀とか珍説奇説は様々だが、筆者には比叡山延暦寺の焼き討ちや伊勢長嶋の一向宗徒の大虐殺など、中世の秩序を壊すためとはいえあまりに人を殺しすぎた信長への反感があったのではないかと思う。
■信長への反感からの「敵は本能寺」
16世紀はヨーロッパでは宗教戦争で非常に多くの人々が生命を失っているが、わが国ではここまで徹底した大量殺戮を行ったのは信長だけである。我々医師は、学部学生のころから医師の使命は一にも二にも、「人の生命を保全し、苦痛を除くこと」というヒポクラテス以来の倫理を叩き込まれる。20世紀においてもナチスドイツのホロコーストや、毛沢東の文化革命、ポル・ポトの虐殺に異を唱えて、処刑された医師も少なくないと聞く。
光秀が実際に医業に携わったかどうかはわからない。だが、あまりに人を殺しすぎる信長への反感から「敵は本能寺」と叫んだのではあるまいか。
信長が少数の供を率いて守りの弱い京都の本能寺に宿泊し、麾下(きか)の軍団が日本中に展開して、手元には自分しかいないという得難いチャンス(彼にとって)を生かすことによって目的を達成できたわけである。そこのところに科学者とも共通する冷徹な視線をうかがうことができる。
ただ、大量殺人者を除外するために自分が殺人を行うというのは大矛盾であるし、何よりも主君の寝こみを襲うというのは、いかにも後味が悪い。同じ反旗を翻すにしても荒木村重や松永久秀のように自分の城に立て籠もったほうが、後世の評価は高かったであろう。もっともこれでは、信長殺害という当初の目的を達成できなかったかもしれないが。
○早川智(はやかわ・さとし)/1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)など
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