帰国後、中村医師は自ら海外医療協力隊のメンバーとして現地に戻る決心をする。著作でこう書いている。

「余りの不平等という不条理に対する復讐(ふくしゅう)でもあった」

 84年、パキスタン北部辺境州のペシャワールに赴任。「診療施設というより包帯巻きをしている安宿」という状況から活動を始める。医療機器を少しずつ揃え、現地の職員に消毒の基礎から指導した。診療施設は拡充され、患者も職員も増えていく。さらに辺境へと医療拠点を増設し、アフガニスタンへも活動を広げた。

 海外から支援に来る人たちのほとんどは数年で帰国する。だが、中村医師は任期が終わっても独立して活動を続ける道を選んだ。

 当時、医療施設に通っていた子どもに「先生も日本に帰ってしまうの?」と問われ、こう答えたという。「お前が一人前になるまでは残る」

 実際にはそれよりもはるかに長い活動となった。(ジャーナリスト・古田大輔)

※【「困った人々の心に明るさをともす」 中村医師が亡くなった同僚に誓った生き方】へつづく

AERA 2019年12月16日号より抜粋