火災で正殿などが焼失した沖縄の首里城。長年にわたる復元事業にかかわった、日本の木造建築の権威に話を聞いた。
【写真】1991年、建物の復元が進んでいた首里城の空撮はこちら
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1972年の日本復帰を直前に控えた沖縄・首里。琉球大学(当時)の敷地内の一角に掘られた2本のトレンチ(発掘溝)を見守る関係者から歓声が上がった。首里城の中心的建物である正殿跡が確認されたのだ。
「これが、首里城復元を決定づけた瞬間でした」
建築史家で元奈良文化財研究所所長の鈴木嘉吉さん(90、奈良県在住)は、文化庁建造物課の調査官だった当時を、つい昨日のことのように振り返った。
■戦後もズタズタに刻まれていた
鈴木さんは首里城復元の可能性を探るため、総理府(当時)の要請で現地調査を担当。沖縄の日本復帰に伴い、県民のシンボル的存在である首里城を何とか復元したい、という沖縄の人たちの願いをサポートする役割を担った。
ただ当時、首里城の敷地は琉球大学のキャンパスとして使用され、高台のエリアには自治体の水道タンクも設置されていた。城跡の面影はなく、「首里城は戦後もズタズタに刻まれていた」ような状態だったと鈴木さんは述懐する。既に鉄筋コンクリートの校舎が幾棟も建てられている敷地で、正殿の遺構を確認できるのか、という懸念がぬぐえなかったという。
ところが、たまたま広場になっていた場所を掘ると、運よく遺構が見つかったのだ。
「ごく浅い地層で首尾よく遺構が確認できたのは予想外でした。沖縄の関係者も非常に喜んで、何とか復元したいという希望、機運が一気に高まりました」(鈴木さん)
正殿は焼失によって建て替えられるたび、規模が大きくなっていることなども発掘調査でわかった。鈴木さんはその後、文化庁退職後も約30年間にわたる首里城復元事業にかかわることになる。
首里城の変遷をたどると、琉球・沖縄と日本の関係が鮮やかに浮かぶ。
■首里城の運命変えた「琉球処分」
首里城の運命を最初に大きく変えたのは琉球処分(1872~1879年)だ。