批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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今回は抽象的な話を記したいと思う。政治と芸術の関係についてである。
かつて芸術は政治と離れたものだと信じられていた。けれども最近では芸術と政治は不可分なものだと考えられている。この認識そのものは正しい。「自分は政治に関わらない、美の問題に集中する」という芸術家の表明が、結果的に権力や暴力の追認になった例は歴史的にあとを絶たない。
けれども、政治に関わるとは必ずしも政局や政治家に関わることを意味しない。かつてドイツの法学者カール・シュミットは、政治の本質は友と敵を分けることにあると論じた。保守対リベラル、与党対野党といった単純な対立構図のなか、どちらが勝つか負けるかばかりを話題にしている新聞やテレビの「報道」は、まさにこの定義のなかにある。日常感覚としてもわかりやすい。
しかし、本当はそれが政治の全てではない。フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、「生政治」「ミクロ権力」といった言葉でまったく異なる政治の概念を提示した。私たちの日常の無意識な行動、ちょっとした礼儀作法や言葉遣い、あるいは食や性の習慣などにこそ見えない政治が入り込んでおり、葛藤や不正を作り出しているという論点だ。この「政治」は政局報道のようにわかりやすくない。けれども、人種差別やジェンダーの問題はまさにそこから生まれてくる。
芸術家はたしかに政治から逃げてはならない。そもそも逃げられない。けれども、そこで関与すべき政治がシュミット的政局なのかフーコー的生政治なのかは、慎重に判断すべきことである。反権力で拳を突き上げるのはいい。しかし拳を突き上げるだけが政治でもない。短期的に味方だと感じる政治家がいたとしても、必要以上に近づいてしまえば自分まで行動が制約される。政局に巻き込まれるとはそういうことである。
筆者は大学を離れて5年以上が経つ。いまは、好きな本を出版し好きな話題について話せるよう、小さな会社を経営している。筆者にとって、表現や言論の自由はそのような独立の努力と切り離せない。最近は空中戦が多いと感じている。
※AERA 2019年10月28日号