「人事制度の根幹が変わるくらい君主の力と臣下が拮抗した国が魏。蜀は圧倒的に諸葛亮の思う通りの臣下主導型の人事。逆にいうと制度化する必要がなかったので、諸葛亮という図抜けた存在がいなくなったら国が回らなくなってしまう。呉では孫権が長生きして老害になる。若いころは人材登用もしていたが、年をとると独裁化し、臣下を疑いスパイを入れるなど一番やってはいけないことをし、呉は自滅しました」
そして最終的に権限を掌握していくのは、曹操のような武将でも諸葛亮のような軍師でもなく、曹操に重用されながら人事を握り、その死後にクーデターを起こした司馬懿(しばい)だった。
「人事は戦争と同じ、命がけの攻防なのです」(渡邉教授)
官僚制度の下では人的ネットワークのパワー、人脈がものを言う。複雑で細かな人脈の海をいかに泳いでいくのか。渡邉教授によると、「三国志」における人脈のつくり方には情義・学閥・故吏(こり(元部下))・地縁・血縁・評価の6種類があるのだという。
「情義」は婚姻関係などで人脈を作れない社会階層が低めの人たちにとって重要だった義理人情の任侠的な世界。これは近年の中国のアウトローの世界でも重視されているという。「地縁」「血縁」は全ての人が持っているが、「学閥」「故吏」「評価」は社会的地位がないと手に入らないエリート層の人脈だ。非エリートがのし上がっていく原理は、当時の社会の中に非常に強く存在しており、それをもっとも活用して立身出世を果たしたのが、劉備だという。
「われら天に誓う。われら生まれた日は違えども、死す時は同じ日同じ時を願わん」──。
下層階級の出身だった劉備は184年の「黄巾(こうきん)の乱」で活躍したことで頭角をあらわすが、共に戦った関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)と「桃園(とうえん)の誓い」で義兄弟の誓いを結び「情義」でつながっていたと『演義』では描かれている。一方で後漢末三大儒者の一人の下で儒教を学び、「学閥」もつかんでいった。いろいろな人を配下に呼ぶことで「故吏」も確立し、同郷の張飛とは「地縁」でも結びついた。「劉」という姓を名乗るのは、漢の皇帝の末裔(まつえい)を称するためであり、「血縁」的であるといえる。諸葛亮を「三顧の礼」で迎えたのは、彼を「評価」したということだ。
「劉備は六つの人脈すべてをフルに活用することで、のし上がっていくことができたのです」(同)
三国志には、変革期をどのようにサバイブしていくかという、現代的な難問に対するヒントがたくさん埋め込まれている。(編集部・小柳暁子)
※AERA 2019年9月2日号より抜粋