メディアに現れる科学用語を生物学者の福岡伸一が毎回ひとつ取り上げ、その意味や背景を解説していきます。いわば「科学歳時記」。今回は「トランス脂肪酸」を解説します。
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トランスとシスという言葉は科学用語としては対義語として使われる。ある直線を引いて、同じ側にあるときはシスの関係、異なる側にあるときはトランスの関係となる。私はこの言葉を文化的な文脈にも拡張して、日本で育ったにも関わらず、海外に飛び出してある種の世界性を獲得した人物、たとえばアーティストのイサム・ノグチや、博物学者の南方熊楠(みなかた・くまぐす)のことを、シスからトランスへの飛躍、というふうに呼んでいる。
さて、今回の問題は、トランス脂肪酸。
細胞は細胞膜という薄くて強くて柔軟なシートで覆われているが、細胞膜の主成分は脂肪酸。そしてこの脂肪酸のほとんどはシス型と呼ばれる分子構造をしている。脂肪酸の内部に炭素二重結合があり、これを直線と見た時、両側の鎖が同じ側(シス)に折れ曲がっている。生体内に、トランス型(二重結合に対して両側の鎖が異なる側(トランス)に折れ曲がっている)脂肪酸はほとんどない。
ところが、工業的に作り出された人工的な油、すなわちマーガリンやスプレッド、ショートニングといった食材には大量のトランス脂肪酸が含まれる。これらは直接的に摂取されるだけでなく、パン、ケーキ、ドーナツ、あるいはフライドポテト、ナゲットといったファストフードにもたくさん含まれるので、既成品の食材に親しんでいると知らず知らずのうちに摂取してしまうことになる。自然界にほとんど存在しないトランス脂肪酸を摂取すると、生体側ではそれを代謝するのに余分の負担が生じ、また排除のためにLDLコレステロール値が上昇、心臓血管リスクが高まるとされる。
米国では早くからトランス脂肪酸の危険性が注目され、現在、加工食品への実質的な使用禁止措置が取られている。日本ではトランス脂肪酸の平均的摂取量はごく少ないとみなされ何も規制はされていない。しかし、ファストフード志向が強い人は注意が必要だ。食品産業界もこの流れを組んで切り替えを進めはじめた。
(文/福岡伸一)
※AERAオンライン限定記事