川崎の大量殺傷事件はじつに痛ましいものだった。罪のない児童と保護者が犠牲になり、犯人は自殺して裁きを逃れてしまった。そのような不条理は人々に大きなストレスを与える。練馬の事件はそこに「出口」を与えたかたちになっている。練馬の犠牲者が川崎の容疑者に重ねられ、被害者にもかかわらず心ない言葉を向けられる背景には、そのような社会的心理があるのではないか。
8050問題はたしかに深刻である。注目され議論されるのはよいことである。しかし今回の2事件がその帰結であるかどうかはわからない。とくに川崎の事件については、別種の背景があった可能性もある。
独身にも無職にもさまざまな事情があるし、ひきこもりを抱えて悩む家族も多い。そこには当事者だけの問題ではない、社会全体が抱える歪みが集約している。悪者探しの欲望に駆られて、彼らへの共感を断ち切ることがあってはならない。
※AERA 2019年6月17日号