政治学者の姜尚中さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、政治学的視点からアプローチします。
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元号が平成から令和へと変わり、新たな時代が始まりました。30年前、明仁上皇は天皇として即位した際に「日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望する」と述べました。天皇としての最後の「おことば」で再び平和と幸せを願われましたが、国の根本的な成り立ちや柱を変えずに次の世代にバトンタッチできたことに対する安堵もあったのではないでしょうか。昭和から平成へと時代が変わっても、母体(国の基軸となるもの)は根本的には変わらないまま、昭和が作り出したさまざまな綻びを試行錯誤しながらも「繕い」続けたのが平成という時代だったと思うのです。
昭和という時代は冷戦時代でもあり、米国的なライフスタイルの追求といった基軸がしっかりとありました。それが相対化されたのが平成で、日本の経済力や、その経済力を支えていた日本的な経営までもが見直され、これらはグローバル化と呼ばれたわけです。
しかし、相対化にはある種の危機が伴います。歴史的にみると19世紀末のヨーロッパでも同じような動きがありましたが、極端な相対化がカオスのようなイメージを生むと同時に、ある種のニヒリズムが生まれます。政治や社会への無関心が広がる一方、ナショナリズムが高揚するというのは相対化に対する防衛反応です。
そうした防衛反応の一方で、平成には女性や子ども、マイノリティーといった人々にスポットが当てられるようになりました。大きな政治といえども、それまで周辺に置かれてきたこうした社会のメンバーを抜きにしては論じられなくなりました。
令和は、そうした平成のコモンセンスがより力強く継承されていくのか。それともナショナリズムのような、多様性を封じ、弱者、少数者に沈黙を強いるような動きが隆起してくるのか。しっかりと見届けていきたいと思います。前者の傾向が強まれば、女系、女性天皇も含めた世論の動きも活発になるかもしれません。私は令和という時代が「繕う」だけではなく、そういう方向に向かっていってほしいと思っています。
※AERA 2019年5月20日号