新元号が「令和」と聞いて胸をなでおろしました。私は元号擁護論者ですけれど、新元号に「安が入っていたら(「晋」でも)、死ぬまで二度と元号は使いません」とツイッターで宣言していたからです。
安倍政権は新元号の発表を「政治ショー」として巧みに利用しました。すでに統一地方選挙が告示されており、夏には参議院選挙も控えています。安倍晋三首相と菅義偉官房長官が終日すべてのメディアに露出するイベントをこの時期に仕掛けたことには、生臭い意図を感じずにはいられません。
これまで元号の典拠は「中国の古典」でしたが、その伝統を覆して、今回はあえて「万葉集」を典拠としたことを大々的に発表しました。しかし、ネット上ですぐに多くの中国文学者がオリジナルは後漢(ごかん)の張衡(ちょうこう)の「帰田賦(きでんのふ)」であることを指摘しました。単なる出典の見落としですから、元号そのものの評価にはかかわりませんが、元号制定過程でほんとうに冷静で綿密な学問的検証がなされたのかという疑念は残ります。
新元号よりも、私の関心はまもなく誕生する「上皇」に向かっています。戦後日本は天皇制と立憲デモクラシーという二つの異なる統治原理をどうやって共生させるかという歴史的実験を行ってきました。そして、今上天皇は2016年に「象徴的行為論」によって天皇制の新たな解釈を提起された。
新「上皇」はもちろん政治的発言は自制されると思いますが、国民的な重大問題について、国民が「上皇はどうお考えなのか?」という問いを発することは止められない。天皇制と立憲デモクラシーの共生問題は「上皇」の登場で一層複雑なものになるわけですけれども、私はこの複雑な現実に向き合って悩むことが日本国民の市民的成熟に資すると思っています。
※AERAオンライン限定記事