哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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橋本治さんが亡くなった。享年70。昨秋頂いたお手紙には、蓄膿症かと思って病院に行ったら上顎洞がんと診断されて、16時間の手術を受けたけれど、さいわい転移はなく、いま療養中ですとあった。
去年、橋本さんは尾崎紅葉の『金色夜叉』現代版の新聞連載を終わらせ、「平成の間中返済を続けた悪夢のようなローン」を完済し、肩の荷をおろしたところだった。
「常識で考えて『えらいね』の一言くらい飛んできてもいいじゃないですか。代わりに飛んできた言葉が『がんですね』なんだからなにをかいわんやでございます」と相変わらず自分の病気さえ茶にする橋本さんの胆力に胸を衝かれた。とても私には真似ができない。
数日前、女流義太夫の鶴澤寛也さんの「はなやぐらの会」の案内が届いた。今年も「お話 橋本治」とあった。春には舞台で話ができるくらいに回復するのだと知ってほっとしていた矢先の訃報だった。
橋本さんは私にとって少年時代からの久しい「アイドル」だった。橋本さんが描いた「とめてくれるなおっかさん」という1968年駒場祭のポスターの挑発性と思いがけない「やさしさ」の衝撃は同時代の空気を吸っていた人でないとわからないと思う。高校を中退して行き場を失っていた私はそのポスターを見るだけのために駒場まで足を運んだ。
10年後、非常勤先で一緒だった下川茂さんが「同級生が小説を書いたんだ。橋本君ていう面白い子でね」と言って『桃尻娘』というタイトルの本を見せてくれた。「あの橋本治」が小説を書き出したと知って、すぐに買って読んだ。それから手に入る限りの橋本さんの本を読み漁った。
ちくまプリマー新書が始まったとき、橋本さんがシリーズ第1作を、私が第2作を書くことになった。シリーズのトーンを整えるために、橋本さんの『ちゃんと話すための敬語の本』の手書き原稿のコピーを「臨書」して『先生はえらい』を書いた。そのとき自分の文体についても思考についても、この先賢からどれほど深く影響されてきたのかを思い知った。
まだまだ書きたいことがあるので、続きは次回。
※AERA 2019年2月11日号