この春、高校2年生になった秋篠宮家の長男・悠仁さま。高校生にお妃候補選びとは気が早いと思われるかもしれないが、ご両親である秋篠宮さまと紀子さまの出会いは学習院大学時代であるのは有名だ。メディア史研究者で成城大学文芸学部教授の森暢平さんにお妃候補に関して話を聞いた。
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上皇さまのお妃候補リストを作られ始めたのは、悠仁さまと同年代の高校生時代だという。
「現在の上皇陛下の例でお話すると、お妃候補のリストは高校2年生のときに作り始めたのです。宮内庁長官だった田島道治の日記に『皇太子候補名簿の件』(1951年2月19日条)とはっきり出てきます。当時、西洋王室から学んだ『同等性の原則』と呼ばれるルールがあり、皇室と釣り合いが取れる家柄の範囲というのは自ずと決まっていた。明治天皇の時は候補が3人でいずれも五摂家、大正天皇は4~5人で五摂家に加え、徳川宗家、毛利・島津などの勲功家を合わせた公爵家のなかから選ばれました。昭和天皇は初めから、宮家の久邇宮良子女王だけが候補でした」(森教授)。
ミッチーブームを巻き起こした「正田美智子さん」がお妃候補となったときは、同等性の原則が徐々に薄れていく。森教授は続けてこう解説する。
「一方、戦後の平成の天皇の場合、正田美智子さん(現在の上皇后)の以前の候補は4人で、旧子爵家まで範囲が広がり、結果的に非華族である正田さんが選ばれました。現在の天皇陛下と雅子さまのころになると、身分制の名残はほとんどなくなり、華族から選ぶという発想はなくなっていましたが、それでも旧宮家出身の候補は有力候補でした。家の秩序がまだなんとなく残っていました」(森教授)
21世紀になると、家制度の秩序、身分制の名残などその痕跡さえなくなった。非婚など人生において結婚しないという選択肢も否定されなくなり、結婚の意味は大きく変わっている。そんな現代に悠仁さまのお妃候補リストは存在するのだろうか?