11月24日、フレディの命日にシンコーミュージックのビルで緊急開催された追悼イベントでは、当時の「ミュージック・ライフ」や写真パネル、日本公演のチケットなどが展示された。懐かしそうに雑誌を手に取る人やインタビュー映像を見る人で会場はごった返した(撮影/品田裕美)
11月24日、フレディの命日にシンコーミュージックのビルで緊急開催された追悼イベントでは、当時の「ミュージック・ライフ」や写真パネル、日本公演のチケットなどが展示された。懐かしそうに雑誌を手に取る人やインタビュー映像を見る人で会場はごった返した(撮影/品田裕美)
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 洋楽ロック少年少女と共に、60年代を走り抜けたバンド・クイーン。二十数年間に渡り洋楽を中心とする音楽雑誌「ミュージック・ライフ」の編集に携わり、彼らと「一番関わりが深かった」という音楽評論家の東郷かおる子さんが、同バンドの絶頂期とその後を振り返る。

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 二十数年間、「ミュージック・ライフ(ML)」を作ってきて、一番、関わりが深かったのがクイーン。日本の洋楽ロックの裾野を広げてくれた彼らと一緒に時代を走り抜けたっていう感じよね。

 1985年、音楽イベントのライブ・エイドは会場で見ました。始まる前は期待してなかった。直前の日本公演をこなしてはいたけど、初来日時のように4人でつるむこともなかったし、解散も間近だとうわさされてたから。それがあのステージでしょ。会場中がフレディに操られるように集団催眠みたいになっちゃって。希代のエンターテイナーよね。「侮って申し訳ございませんでした!」って(笑)。彼らもバンドとしての自信を失っていたから、ライブ・エイドに救われたんじゃないかな。

 フレディの死には驚かなかった。「イニュエンドウ」の「ショウ・マスト・ゴー・オン」を聞いたとき、「これは長くないな」って感じたから。血を吐くような絶唱じゃないですか。彼らの曲で初めて泣きましたよ。曲を書いたブライアンもすごいよね。信頼関係がないとできない。フレディは「もう時間がないからどんどん曲を書いてくれ。歌うから、あとは好きにしてくれ」と言っていたらしいし。

 映画でも涙がにじんだのは、フレディが電気をつけたり消したりするシーン。好きな音楽で成功したのに孤独からは逃げられなくて。晩年、外出もできなくなったとき、自宅の日本庭園でを抱いて、池で泳ぐ錦鯉を日がな眺めていたっていう話があって、その背中が目に浮かんだわね。

 でも、ステージでは誰よりも輝いていたし、最期まで音楽に生きられて幸せだったんじゃないかな。彼らの格好良さとヒリヒリする焦燥感を凝縮した曲が「ボヘミアン・ラプソディ」。フレディのパフォーマンスも圧倒的だったし、「絶対に日本で受ける」と確信したわね。半裸でデカパンはいて歌う、なんて変態っぽいステージ衣装も多かったけど、そんな「いじられキャラ」もファンには愛されたのよ。

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