福岡県在住の自動車販売業、畑山郁夫さん(65)の母親(83)が脳血管性認知症を発症したのは、5年前、脳出血で倒れた後だ。後遺症で下半身麻痺が残ったが、入院中、目を離すとベッドから降り、這ってさまようという。暴言も出る。家族で話し合い、看取り覚悟で自宅へ引き取った。入院時よりはBPSDの症状は多少落ち着いたが、やり場のない思いが募った。気丈な母親が、明瞭な言葉も発せず、「こげんだらしなくなってしまうのか」。頭で病気とわかっていても、言葉がきつくなった。

「どうしてこんなこともできんとね」「なんで頑張らんと」

 家業の傍ら介護に追われ、疲労が蓄積していた。翌春のある日、業務上の伝達もれからキャンセルが出た。これまで決してしなかった失敗に、畑山さんは青ざめた。母親が、よく舌がまわらない口で「どうしたね」と尋ねてきた。仕事でミスをした
と伝えると、何もわからないはずの母親が泣いて訴えた。

「私が迷惑をかけとうけん。殺してくれ」

 認知症の症状には揺らぎがある。時折ふといつも通りの母になる気はしていた。一人で逝かせるのは忍びない。「一緒に死のう」と決意した。

 カレンダーに印をつけて「Xデー」を決め、ひそかに準備を進めた。印に気づいた娘に尋ねられ、とっさに「ばあちゃんと旅行する日」と答えた。「私も行く」と娘と妻が加わり、そのまま家族旅行になった。旅行先で冷静になった。

 その後、畑山さんは地元の認知症家族の会に出合い、家族介護者たちと親交を結んだ。

 いくつかの本を読み、認知症ケアも一から学んだ。何が不安なのか、どうしてほしいのか。母親に受け入れてもらうために、母親の立場になって考えた。母親への接し方が変わった。

「はたから見たら、ぼくら親子は他人行儀に見えるかもしれない。着替えをする時も『これから着替えますよ』と丁寧に言葉をかけるし、毎日『すみませんねえ、ありがとうございます』『いえいえ、どういたしまして』というやり取りをしているから」(同)

 前出の高橋医師は言う。

「認知症のある人が自信をもって生きるためには、何げない会話や、認められることが必要です。身内だからこそ、励ましはぐっとこらえて、『あなたがいたから豊かに人生が送れたよ』と、感謝の言葉を伝えてほしい」

(編集部・澤志保)

※AERA 2018年11月12日号より抜粋