鈴木俊一知事(当時)は、都心部への業務機能の集中を抑え、「職」と「住」が均衡した多心型都市を目指す「マイタウン東京構想」を提唱。地価上昇に伴い、工場地帯からの用地転換を迫られていた豊洲を臨海都市として再開発し、新たに6万人を居住させる計画を発表した。豊洲は銀座や丸の内まで直線距離で2~4キロ。鉄道と道路を整備すれば10分以内でたどり着ける都心屈指の好立地だった。

 この時に使われたのが「ウォーターフロント」という新しい概念。世界都市東京の海の玄関であるこの埠頭を、住居、商業、文化、国際交流の拠点として再整備する都市計画だ。2002年、石川島播磨重工業が工場を移転すると、一気に計画が動き出す。工場跡地に三井不動産が開発したのが、今や豊洲のランドマークとなった商業複合施設「アーバンドック ららぽーと豊洲」だ。

 中央区副区長の吉田不曇さんは言う。

「湾岸エリアではオフィスビルはともかく、商業施設は成功しないと言われてきました。わずか2キロの場所に銀座、日本橋という日本一のブランドを有する商業地があるからです。かつては、同じ物を買うにしても、銀座で買うということがステータスでした」

「天空制覇」
「湾岸の特等席」
「ラグジュアリーを極めると、住まいはアートへ昇華する」

 豊洲にそびえる超高級マンションのパンフレットにはこんなキャッチコピーが躍る。地上50階建て、3LDK(120平方メートル)の価格は1億円を超える。高級タワーマンションの売買に詳しい不動産関係者は言う。

「ホテル並みのラグジュアリーな空間に憧れて郊外から移住してきたのは、働き盛りのニューファミリーの富裕層でした。都心の同クラスのマンションと比べると、それでも2割から3割、価格は安かったのです」

(編集部・中原一歩)

AERA 2018年10月8日号より抜粋