「原爆が落ちて、キノコ雲の下で何があったかというたら、子供たち、大人たち、みんな熱いよ、熱いよって、熱線と爆風で大やけどしたんです。私は17キロくらい離れた飯室という田舎におったから、午後になったら、被爆者がね、市街地から水を求めてぞろぞろ来るの。服はぼろぼろ、髪はぼさぼさ。幽霊みたいで怖くてね。母の後ろに隠れたの……」
被爆者の箕牧智之(みまき・としゆき)さん(76)は8月1日、広島県北広島町の自宅で紙芝居を見せてくれた。修学旅行で広島に来る小学生に被爆体験を伝えるための自作の紙芝居。3歳だった当時の記憶は実はあまりない。「幽霊に見えた」という被爆者のことを覚えているだけだ。それだけに紙芝居のベースになっているのは、8月6日のたびに、平和記念式典をテレビで見ながら、当時を振り返る母親の話だった。
広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)の副理事長として坪井直(つぼい・すなお)理事長を支える。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の代表理事でもある箕牧さんは、原爆投下翌日から3日間、帰らぬ父を探しに母や弟と一緒に広島市へ行き、入市被爆した。東京・板橋で生まれたが、1945年3月10日の東京大空襲の2カ月後、戦火を逃れて父の故郷・広島県安佐郡飯室村(現・広島市安佐北区安佐町飯室)に移った。原爆が広島に落とされる3カ月前だった。
「私の自宅近くに広島から逃げてきた、おばあちゃんがおられた。いつも広島にピカが落ちた、ピカにやられたって、よう話をしてくれた。私はピカが大きな爆弾だということは知っていたが、原爆だと知ったのは、ずっと後になってからだった」
何も知らされないまま、戦争に翻弄された幼少期を送った。高熱が出て、体調が悪くなったのは小学校5年生の時。その後回復したが、一時は医者に「この子はダメかも分からん」と言われたという。
「その時は風邪だと思ったが、いま考えれば、あれが原爆症だったのかも。元気だったのに突然体調を崩して亡くなった(広島平和記念公園にある原爆の子の像のモデルとなった)佐々木禎子さんのこともある」