消費される側だけれど、自分の欲望はある。被害者とまでは言いませんが、自分たちの思いが伝わらない、ある種のもどかしさが出発点にあると思うのです。自分が時代のサンプルだという意識が、今までの写真家より強くあるのではないか。特に彼女は芸術と芸能、ふたつの領域で活動していましたし、芸能は時に、根拠のない消費にさらされますよね。
母親になってからは共感だけではなく、作品から、女性性と母性も入り混じって感じるようになりました。
プロとして活動しだした初期は、極端なイメージを自分の写真で作らなければならない、という強迫観念もあったかもしれません。ところが、母になり、それがだんだんとストレートになってきて、包容力のようなものが生まれた。「シンプルな写真でもいいんだ」と受容する変化があったように思います。少女としての眼差しから母親としての眼差しへの変遷を経て、いま、彼女は、「自分の世界に染める」というプレッシャーから解放されつつある、過渡期にいるように思います。
AERAは、創刊以来、その時代を象徴する人々のポートレートを表紙にしてきました。
ポートレートを撮るとは、アメリカでは、顔に表れる人物の内面や真実やしがらみや普遍性を読み取るということでした。
しかし、蜷川さんがAERAで撮っているのは、ある種歴史的な、新しいかたちのポートレートです。彼女は傍観者としてではなく、自分も同じ経験をした当事者として、被写体の前に立っています。
蜷川さんは長らく、モノクロの「Self-image」というセルフポートレートシリーズで、自分を時代の「サンプル」とするような写真を撮っていました。そうした積み重ねがあったから、いまの写真がある。
2016年4月18日号から今日まで、99枚のAERAの表紙は、非常に新鮮です。
過剰なほど作り上げられた独自の世界観と、シンプルに受容して優しく共感で包み込む、両方の思いを感じます。素敵な作品がたくさんあります。