名ピアニストで日本でも高い人気を誇るスタニスラフ・ブーニン氏のグランドピアノの来歴に、興味深い事実が隠されているらしい。妻である中島ブーニン・栄子さんが探り始めると、聞こえてくるのはロシア革命の残響だった。
【写真】「ブリュートナー」の鍵盤。ピアノの特徴・個性は譜面台、ペダル、足などにも表れる
* * *
夫の名前はスタニスラフ・ブーニン。
1985年12月、NHKで放映された「ショパンコンクール85~若き挑戦者たちの20日間」のドキュメンタリーは、当時、クラシック音楽の枠を超えた日本人の幅広い層に“ブーニンブーム”と呼ばれた大きな社会現象をもたらした。破天荒な演奏スタイルや斬新な曲の解釈に加え、煙草をくゆらしながらカメラに向ける19歳の青年のシニカルな眼差しを記憶する人も多いかもしれない。
それから30年。2015年1月末、夫はひとつのアルバムの録音を終えた。
「いつか“あの”ピアノで録音したい」と、彼が常々語っていたピアノ──1909年製のドイツの「ユリウス・ブリュートナー」でのアルバム収録は、彼の30年越しの夢だった。
夫や姑、夫の叔母たちからいく度となく聞かされたこのピアノにまつわる話は、当初はいかにも“ロシア人好みの秘話”に思え、懐疑的だったのだが、ふとしたことから、私はその謎に迫ることになり、いまや探求の旅の虜となっている。
彼らの話をひもとこう。ピアノは、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(1859~1941)が従妹のアレクサンドラ・ロシア皇后(ロシア最後の皇帝ニコライ2世の妃)に贈ったものだった。しかし第1次世界大戦勃発を機に、ロシア中に広がる反ドイツ感情を案じた皇后は、ドイツ製の品々のほとんどを宮廷の女官たちに分け与え、この「ユリウス・ブリュートナー」も一人の女官に託された。その後、1970年代末に女官が亡くなるまで、ピアノは“聖なる遺品”として彼女の元で大切に保管されていた。
秘話は続く。時は流れて81年初冬、ボリショイ劇場のピアノ調律師から、ドイツ製のピアノが非公式に売りに出される(旧ソ連社会では厳禁)との情報を得た当時15歳の夫は、この話に飛びついた。試し弾きの最初の数小節で、若きブーニン少年は美しい響きの虜となる。しかし、女手ひとつで彼を育てる母親には手が出せる金額ではない。そこで夫の名付け親でもある叔母のナタリア・パステルナーク(ノーベル文学賞受賞者ボリス・パステルナークの息子の妻)が援助の手を差しのべる。初めて自分専用のグランドピアノを持った15歳の少年の演奏技術は、飛躍的に上達していった。そう、このピアノこそが「ユリウス・ブリュートナー」だと、夫や親族は言うのだ。
本当なのか。14年春、私は当時の資料にあたろうと、ドイツ・ベルリンのプロイセン文化財枢密国家公文書館を訪れた。だが、今日では装飾目的以外には使われなくなったひげ文字と俗称される古い書体で手書きされた資料も多く、ドイツ人にも読める人は少ない。私に解読できるはずもなく、調査はスタートから暗礁に乗り上げた。
だが、転機は偶然訪れた。17年4月、ドイツ・ライプツィヒに工房を置くブリュートナー社を訪ねた時のことだ。会長のブリュートナー氏(84)は、
「この『ユリウス・ブリュートナー』は確かに1909年にうちの工房で製作されたものです。かつて、我が社とヨーロッパ中の王室とのパイプは太く、ブリュートナー社製ピアノが重用されていました」と、1枚の写真を見せてくれた。それは1890年頃の、ベルギー王妃と3人の皇女たちが2台のブリュートナーを並べ、弾く姿だった。
「当時、ヨーロッパ中の王室が縁戚関係にあって、贈答品のやりとりは日常茶飯事、そこにピアノの贈り物があっても不思議ではありません。しかし、2度の世界大戦で資料のほとんどを焼失し、このピアノがヴィルヘルム2世からニコライ2世の妃に贈られたものかを証明するのは難しいでしょう。ピアノの足跡は貴方が最初に訪れた公文書館にあります。協力者を得て、もう一度調べ直してごらんなさい」
とブリュートナー氏は助言をくれた。
それから2カ月後、私は欧州でピアノの調整や整音、修理・修復を学び、さまざまな専門知識も携える専門家の男性が来日した際に、夫の「ユリウス・ブリュートナー」を見てもらう機会を得た。
ピアノの鍵盤を外しにかかった彼は開口一番、「これほど良い状態を保ったピアノはまれです。長い間人の手に触れず、“眠っていた”という推測は大いにあり得ますね」と興奮を抑えきれないといった面持ちで話した。
古いブリュートナーは数多く東欧圏に現存するが、保存状態が極めて悪く、まともに弾けるものはほとんどないらしい。彼はピアノをくまなく点検していく。そして「このおびただしいサインは何だろう!?」と驚きの声を上げた。
その昔、職人気質の色濃いピアノ製作の現場では、親方たちは自分の名前をひそかにピアノの内側に書き残したという。夫のピアノには、一目でわかるところに、数多くのそうしたサインが残されていた。
「これほど多くのサインは初めて見ました。記念モデルなどの理由で、製作にかかわった多くの作業者たちがその誇りを書き残した可能性は大いにあります」
彼はほおを紅潮させていた。(ライター/主婦・中島ブーニン・栄子)
※AERA 2018年4月30日-5月7日合併号より抜粋